片想い卒業式、ストーカー入学式。

今日私は好きな人に「yv1h56wくんとはもう話すことが無いかな、、。」と言われた。
そうつまり私は好きな人に嫌われた。
"片想い"というまるでメジャーコードのようで純粋無垢で煌びやかな響きが、
"ストーカー"というまるでディミニッシュコードのような歪んだ響きなってしまった。
でも私はそのディミニッシュコードをも愛してしまう、そこにファズを加えてやっても良い。なぜならその人の事を愛しているからだ。捻くれた音楽が好きだからでも、ディミニッシュコードが好きだからでもファズが好きだからでもない、ただその人の事が好きだからである。そんなストーカーという存在になれた私は何だか、現代音楽家にでもなれた気がして少し嬉しかった。
それからというもの、私と彼女の間に大きな変化は無くごくまれに喋っていたのが喋らなくなっただけで、相変わらず彼女は友達と談笑をしながら絵を描いていて、私も相変わらず捻くれた音楽を聴きながら本を読み、コークオンで無料で引き換えたジュースをちびちびと飲んでいる。外は凍えるほど冷めていて、私の着ているスーパーコピーのアークテリクスからは、冷たい風が通り抜け、素肌を突き刺していた。そんな凍える私を横目に、彼女のSHEINのダウンジャケットはとても温かそうだった。
質が悪くとも本物を着ている彼女と、
質はいいが偽物を着ている私、
このあまりにも正反対な関係に私は片想いという恋愛を諦めさせられ、ストーカーという道を勧められた。
好きな人という存在が消えた生活というものはそれはそれはとても速く、何も刺激のない日々だった。
音楽を聴いて、本の文字を読んで、義務のように自慰行為をして、保存していた彼女の画像を見て、寝室に向かう。
平坦でクソつまんないのに、少しずつ視界が悪くなっていくような、そんな悪い気までしてくる、とても胸糞が悪い、はやく抜け出したい。こんな自分を滅多刺しにしてやりたい、終わらせたい。
縋っていた物が消えてようやく自分の無力さに気づく。
私は彼女に託しすぎた、そして意味の無い期待をしてしまっていた。
「きっとあの子はこう思っていて、悩んでいて、それは僕にしか癒す事が出来なくて...。」と信じて疑わなかった。
妄想というものは非可逆的な物で、カタチになった頃にはもう戻す事が出来ない。私が彼女に抱いていた理想も、彼女にとっての理想になろうと努力した自分の姿も。非可逆的なもので、もう変えることは出来ない。
そうなってしまった私は、そのカタチを現代美術だと言い張るしかない。ヤスリで角を丸くしてしまえばそれは「無」であり、自分を失い切る事になってしまう。
その人の為にカタチを変えた道具は、愛されて使われることもあるが、いずれは使い捨てられる運命である。
使い捨てられた先には「無」しか無い。
好きな人の為にカタチを変えるのはとても好きな人に貢献が出来ることである、しかし恋愛とは貢献などを求めてやっている行為ではない。自分の存在理由を知る為、自分が自分で居て良いと許可を求める行為である。
だから相手の為に無理に自分を変える必要は無い、自分を削ってカタチを変えるより、自分を磨いて、好きな人に見つけて貰いやすくする方がよっぽど良い。
貴方は好きな人の何になりたいのか、考えてみて欲しい。



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