制度化の弊害
世の中はどんどん便利になっていく。
福祉業界とて、それは例外ではなく、モノやサービスはゆっくりだが日々、変化・進化していっていると思う。
でもふと思う。
便利になることが、幸せに直結するわけじゃないんだろうなと。
まだまだ制度が未成熟だったあの頃。
ぼくは、あの頃は良かったな。楽しかったな。
心からそう思う。
18歳の時、ぼくは福祉系の専門学校に入学した。
人や、そのココロに強く関心があったから。
オープンキャンパスにも行っていたぼくは、その時に出会った先輩に「中島くん入学したら介護のバイトしてみーへんか?」と誘われていた。
ちょっと怖い気持ちもあったが、入学後その先輩に再び誘われて「とりあえず見学だけでもいいからいっぺんおいでーな」と言われ、行ってみることになった。
最初は施設のようなものを頭に思い浮かべていたのだけど、行ってみると普通の家だった。
県営住宅の1階の角部屋だった。
先輩はチャイムを押すこともなく玄関のドアを開け「けんごさん、こんにちは~。新人連れてきたで~」と言いながら入っていった。
ぼくも慌てて後をついて部屋の中に入った。
「おー…ま……てたで、とりぁ…ずふろ……はいる…わ」
車椅子の男性は何とか声を振り絞るかのように声を出していた。
けんごさんは脳性マヒという生まれながらの障害を持っているらしかった。そのせいで上手く身体を動かすことが困難で、声もとぎれとぎれだ。
両手は何故か「おばけだぞー」と人を驚かす時のような手で固まっていた。
これが動かそうと思っても難しく、固まっていることが不思議だった。
左足もほとんど動かなかったが、右足はかろうじて動かすことが出来たので、けんごさんの電動車椅子には、右足の足元にレバーがついていた。
右足でレバーを操作し、器用に動き回っていたのだ。
不思議そうに見つめている横で先輩はテキパキとお風呂の準備を始めていた。
「中島くんちょっと手伝ってくれやー」
先輩に言われるがままに準備を手伝った。そして入浴の際には「ほな中島くんやってみよか」と突然言われ、困惑した。
「いやいや、出来ませんよ」
「大丈夫やって! なぁけんごさん、ええよな?」
「ええ…よ。や…ってみ」
「ほしたらまず服脱がすところからやな」
渋々けんごさんの服を脱がそうとしたが、手が固まっているせいで脱がすのはなかなか難しかった。
「中島くん、脱健着患やで」
「だっけんちゃっかん?」
「脱がす時は健側から着る時は患側からするとやりやすいよってことや」
「けんごさんは両手とも動かされへんけど、固まり具合は違うんや。よく動く左手の方から脱がしてあげてや」
ぼくが最初に学んだ福祉の用語はおそらく「脱健着患」だったと思う。
無事脱がすことが出来ると
「よし、じゃあ中島くん抱っこしたって」
「え?」
「けんごさんをお姫様抱っこするんや」
「いやいや、出来ないですよ」
「まぁええから、お手本見せるからよう見ときや」
この日、けんごさんの家に居たのは、ほんの2時間くらいだったが初めてのことだらけだった。
この時代はまだ障害にある人が地域で生活するのは当たり前ではなく、福祉制度も未熟だったため、大変だった。
けんごさんも介助者を自分で探したり、介助者の友人や後輩を連れてきてもらうことで何とか地域での生活を成り立たせていた。
ぼくの通っていた専門学校もけんごさんの介護を代々先輩から引き継いでいるのだと言う。
それからけんごさんとは色んな所に行ったし、いっぱい遊んだ。
よく飲みに行ったし、徹夜で麻雀もした。
パチンコ・スロットはけんごさんに教えてもらった。
旅行も行った。映画も観に行った。
花火大会に行った時なんかは皆車椅子を避けてくれるもんだから車椅子って便利だななんて不謹慎なことを思ったりもした。
しかし、そんな日々も少しずつ変化しつつあった。
まず介護者の確保が難しくなっていき、制度も移り変わっていき、ヘルパーを導入することになった。
ぼくも資格を取得し、ヘルパーとしてけんごさんの家に入ることになった。
仕事として入るとなると当たり前だが、色々制限が出てくる。
今までと変わらない付き合いをしているつもりだったが、出来ないこともあった。
一緒にパチンコに行くだなんて言語道断だった。
少し寂しさもあった。
それでも何だかんだとあっという間に卒業の時が来てしまい、就職するとけんごさんと会う回数も減った。
年賀状のやりとりは続けていた。
けんごさんが入院したと聞いてはお見舞いにも行った。
でも毎回元気そうで「心配させやがって」と思っていた。
ぼくが就職して数年が経った頃、けんごさんはあの世へ旅立った。
お通夜では、当時の介助者もたくさん集まり、昔話に花が咲いた。
あの頃は良かったなって。
福祉制度が充実し、便利になったことは確かだ。
介助者を昔みたいに自分たちで探し回る必要もない。
でも、人と人の付き合いが本当に出来ているだろうか?
どこか壁が生じているのではないだろうか?
そう思わずにはいられない。
人と人はどこまでいっても人と人。
例え利用者と支援者として分断されていったとしても、利用者と支援者である前にひとりの人と人なのだ。
ぼくは、利用者である前にひとりの「人」として目の前の人に接していきたい。