夢見るリアリスト・渡邉晋
「モデルみたいな選手がいる」
今から18年前の2002年、ベガルタ仙台が初めてのJ1に挑んでいた年、サポーター1年生の私は彼を初めて見てそう思った。
背番号2番、渡邉晋。大卒から札幌、甲府を経て加入した容姿端麗なセンターバックだった。
正直、フィジカルや足元の技術はJ1クラスとは言えなかったが、180cmという体躯と持ち前の賢さでゴールを守った。自らに足りないものを頭脳で補う、そんな印象のDF。ピッチ外でも真面目で実直、爽やかな印象の好青年だった。技術やフィジカルを頭脳で補うことができる、という事を教えてくれた存在だった。
2004年に現役引退。クラブへ残り、指導者への道を歩み始めた。この人はきっといい監督になる、そう予感したのを記憶している。
そこからのベガルタは怒濤の出来事が目白押しだった。J2でもがく日々、J1J2入れ替え戦、J2優勝&J1昇格、東日本大震災、2位躍進、ACL出場など数多くの山場を乗り越えてきた。
2014年、クラブはリーグ2位という過去最高成績を出し、長期政権を担ってきた手倉森誠監督と袂を分かち、新たな指揮官グラハム・アーノルド監督を招聘する。クラブが長年培ってきた堅守速攻という殻を破り、さらなる高みを目指すといった狙いだった。
しかし、この思惑は辛くも崩れ去ることになる。開幕から白星に恵まれず、外国人指揮官を補佐する体制が未熟なチームは瓦解寸前。開幕から一ヶ月余りの4月、クラブはアーノルド監督の解任を決断する。
降格待ったなしのこの状況でチームの指揮を託されたのが、S級ライセンスを取得したばかりのヘッドコーチ渡邉晋だった。まさに火中の栗を拾う選択だった。
そんな中でも、「堅守速攻」というチームのアイデンティティへと立ち帰り、彼はチームを立ち直らせる。年間成績は14位。第二次J1期最大の降格危機を回避し、見事残留を手繰り寄せることに成功した。
それでも、渡邉晋は満足しない。「堅守速攻」は確かにベガルタ仙台の歴史の中で欠かすことのできない概念であり、成功体験の旗印。しかしそれだけでは日々進化を続けるサッカー界に置いていかれると危惧したのである。オフシーズンにはサッカーの最先端を学びに欧州へ赴くなど、自己研鑚を惜しむ事なく行った。
当時、「ティキ・タカ」に代表されるようなパスサッカーを志向しているのか、という憶測もあったが、蓋を開けてみると違った。彼が持ち込んだのは、“立ち位置で相手より優位に立つ”を原則とする「ポジショナルプレー」によるサッカーだった。当時、ヨーロッパで広がりつつあった概念を極東の一地方へと持ち込んだのである。
「賢守賢攻」というスローガンを新たに掲げ、個人の技術力だけでチーム力が左右されない、頭脳を使ったサッカーの構築を目指した。それはまさに、技術やフィジカルで劣りながらも頭を使って賢くプレーを続けた、現役時代の彼の姿そのものだった。
渡邉晋のサッカーは選手の育成という面でも大きな力を発揮した。大岩一貴、中野嘉大、野津田岳人、三田啓貴、石原直樹、ハモン・ロペスなど他チームで燻っていた選手は再び輝きを取り戻し、西村拓真、板倉滉、シュミット・ダニエルといった若手選手は”奥州から欧州へ”と羽ばたいていった。かつて「選手再生工場」とも揶揄された仙台から、ヨーロッパの一線で戦う選手を輩出するに至ったのである。
こうして、一定の個人の能力に頼らない、選手全員で戦う戦術的に整理されたチームを構築していくことで、J1残留というノルマを渡邉晋はコツコツとこなし続けていった。それだけでは飽き足らず、ルヴァンカップベスト4や天皇杯決勝進出など、クラブ史上初のタイトル獲得まであと一歩という所にまで迫り、クラブの格を押し上げていった。目に見える結果と選手の成長を促し続けた彼はまさに「種まく人」であった。
こうして書いてみると順風満帆に見えるが、現実は違う。成長し、チームの骨格となっていた主力選手たちを引き止めること難しく、大幅な選手の入れ換えがオフシーズンの恒例となっていった。DAZN到来によりJリーグが全体的に大規模化しつつある中で、ほとんど規模拡大できないベガルタというクラブの問題が浮き彫りになった形だ。
そして、2019シーズン、その問題がついに現場に顕在化する。奥埜、野津田、中野といった主軸が抜かれ、それまで築いていたサッカーのクオリティを保つことができなくなってしまった。序盤戦でつまづき、最下位に転落した時期もあった。そこで、渡邉晋は苦渋の決断をする。かつてのベガルタの旗印「堅守速攻」を再び掲げたのだ。
結果は、J1残留。シマオ・マテ、関口、道渕、長沢ら「堅守速攻」において力を発揮しうる選手たちの働きもあり、監督就任以来のベストタイとなる11位でフィニッシュした。それでも、渡邉晋にとっては苦い1年だったようだ。「仙台のサッカーが、元にもどってしまったというか、これまでに積み上げてきたものが、なかなか今年発揮させることができなくて、複雑な感情です。」ホーム最終戦後のあいさつの言葉に集約されている。
J1最下位規模ながら10年連続残留という結果は、第三者から見ればまさに快挙。長年サポーターをやっている自分としても、奇跡的な成績、という一言に尽きる。
しかし、渡邉晋は満足しない。常にベスト5という目標を掲げ、ベガルタ仙台というクラブが強く魅力的なチームへと進化し続ける事を、大いなる向上心と共に願っていた。
マジメで頑固な渡邉晋。
恵方巻をきっちり恵方を向いて黙々と食べている姿を撮られてデジっちで全国放送され、大学生チームに負けた時は謝罪動画をアップしたり事もあった。
クールに見えて熱い心を持つ渡邉晋。
ゴールを決めた後の盛大な両手ガッツポーズ、判定に納得いかずクラブ史上初の監督退場をやってのけた事もあった。
彼が表現する真面目で実直なサッカーは、ベガルタサポーターのみならず、他チームサポーター、そして野生のサッカー戦術マニアたちの心を動かし続けてくれた。彼のサッカーが紐解かれていく様を見ていくことで、ゲームを戦術という目線で観るというサッカーが持つ魅力を再発見することができた。大勢でベガルタ仙台というクラブを応援している雰囲気が何より楽しかったのを覚えている。
そして、彼が試合後に必ず口にしていた言葉がある。それは、サポーターへの感謝の言葉だ。それは、ホーム、アウェー、試合の大小に関わらず、会見で欠かすことは無かった。
19年という長きに渡り、選手、フロント、コーチ、そして監督としてベガルタ仙台というクラブに関わってくれた事。天皇杯準優勝、カップ戦ベスト4、10年連続J1残留、自前選手の海外移籍という大いなる夢をサポーターに見せてくれた事。自分が応援するクラブはこんなにも誇らしいのだと気づかせてくれた彼には、本当に感謝の思いしかない。
2014年、彼が監督に就任した時、嬉しさと共に寂しさを感じたのを覚えている。監督という仕事の先には、かなりの確率で別れが待っているからだ。
私がベガルタ仙台を見始めた時から、渡邉晋は立場を変えながらずっとクラブに居続けてくれた。私の中でベガルタ仙台と言えば、千葉直樹でも梁勇基でもない、渡邉晋だ。彼のいないベガルタはこれからどうなっていくのだろうか。
夢見るリアリスト、渡邉晋。私の愛するチームを愛してくれてありがとう。これから先、道は違えど、監督としてさらなる飛躍を期待し、そしてまたいつの日か、輝き放つ空の下で再び相見えることを切に願っている。
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