ペルソナとありのまま
前回の記事の続きです。
もうひとつルルーシュをみて考えたことがあります。それはタイトルのとおり、「ペルソナとありのまま」についてですが、もっといえば「嘘のない世界は幸福なのか」という問いをめぐるものです。この問いは多分に抽象的です。「嘘」という言葉の定義はなにか、そして「嘘のない」という状態は具体的にどのような状態を指すのか、また「嘘のない」とは誰の誰に対する「嘘のない」状態なのか(主体と客体の問題)、「幸福」とはなにか──。私はこれらに逐一答えを出さないで、あいまいにしておくところはあいまいなままで私のいちおうの考えを書いていこうと思います。端的にいえば、「嘘のない世界は幸福なのか」という問いを誰かに日常で訊かれたら私がそれに対してその場で答えそうな回答、ということにでもなるでしょうか。
私は、やさしさや誠実さに種類があるように、嘘にも種類があると考えています。辞書的には「嘘」とは「①真実でないこと。またその言葉。②正しくないこと。③適当でないこと」です。しかし、辞書をみたからといってやさしさや誠実さを皮膚で感じることができないように、辞書をみただけでは嘘という言葉を掬いきれません。一般的には善意でついた嘘はよくて、悪意でついた嘘はよくない、という評価もされるかもしれません。善意とは相手のためによかれと思って、悪意とは相手を故意に陥れようとして、というふうな意味になるでしょうか。たしかに、そのような区別の付け方もありうるでしょう。しかし、私にとって嘘が問題になるとき、それはけっして他者に対してどのような場合にそれが許容されるかという区別が問題になることはありません。私が問題とするであろう嘘は、自分自身に対してのそれです。
そうすると、私には「嘘のない世界は幸福なのか」という問いは「他者に対して嘘のない世界は幸福なのか」ではなくて「自分自身に対して嘘のない世界は幸福なのか」と受け取られることでしょう。「他者に対して……」の問いにも応答はしうるでしょうが、まずはなによりも「自分自身に対して……」のほうが問題になります。
「他者に対して……」と解したとしても「自分自身に対して……」と解したとしても、「嘘のない」を「自分を偽らずありのままでいること」と考えるならばふたつの違いはたいして問題になりません。嘘を外に向けるものとして考えても内に向けるものとして考えても「自分を偽らずにありのままでいること」という態度自体は変わらないからです。要するに、「他者に対して自分を偽らずにありのままでいられるような世界は幸福か」という問いと「自分自身に対して自分を偽らずにありのままでいられるような世界は幸福か」という問いを区別する意味はほとんどないということです。いや、ほんとうのところは「他者に対してありのままでいること」と「自分自身に対してありのままでいること」はまったくべつのことなのかもしれなくて、きちんと検討する必要があるかもしれません。けれども、このことには判断を保留します。
「他者に対して」でも「自分自身に対して」でも問いに付されるのは「嘘のない世界は幸福なのか」、すなわち「自分を偽らずありのままでいられる世界は幸福なのか」ということです。先述したとおり、日常でこの問いを誰かに訊かれたときにどう答えるだろうと考えると、たぶん私ははっきりとした答えを出せないように思います。「幸福だ」とも「幸福ではない」とも。私にはわからないことが多すぎるからです。そもそも私は、たとえ仮定の話だとしてもそんな世界を想定できません。成立しない、不可能だ、というのが私のいいうる回答のひとつかもしれません。
ありのままの私だとかほんとうの私なんてものが存在すると考えると息苦しくなります。私たちはつねに複数で、状況や環境によってその現れ方が異なるだけです。家族の前でみせる姿と友人の前でみせる姿が異なるからといって、どちらかが嘘だということにはなりません。つねにすでに自分自身のなかに複数性を内包し、さらに外からさまざまなものに触発されて現れるものもまた種々である、と私は考えます。だから私は、強いていうなら「嘘のない世界は幸福なのか」という問い自体がまずいのだと思います。前提として問いがまずかったらどんなに考えても上手くいくはずがありません。ひとつほんとうの私しか認められないのならば、私たちは誰しも嘘つきになってしまうでしょう。だけどそんなはずはありません。どんなときも私であり、私でない。「こんなのは私じゃない」と否定したくなるような自分自身に出会ってしまうこともあるでしょうが、否定してないもののように扱ってしまうのではなくて「ああ、これも私なんだな」と思える自分自身のほうが誠実な世界にみえます。「これが自分だ」とこうありたい姿をみずからに課し、その規範に従って生きるのは立派で、素晴らしいことです。疲れたら休んで、そういうふうに人生を歩き抜けたらいいなと思います。一方で私は、これまでみつけてきたいくつもの自分のひとりも否定しないでいたいとも思うし、これから出会うどんな自分も否定しないでいられたらいいなとも思うのです。それはきっと孤独で、めざし続けられるのが稀有な道だろうけれど、だからこそ歩んでみたいと思えるようなものなのかもしれません。