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Vol.3 老いと向き合う - 渋谷のスクランブル交差点で考えた、祖父母のこと、そして自分の未来
スティーブン・R・コヴィー著『7つの習慣』では、「終わりを思い描くことから始める」ことの重要性が説かれている。人生の最期、つまり「自分の葬儀」をイメージすることで、自分がどう生きたいのか、何を実現したいのかが明確になる、と。
私たちは、いつか必ず訪れる「死」から目を背けがちだ。しかし、死を意識することは、生を充実させることに繋がる。ならば、日頃から「理想の最期」を思い描くことも、人生をより良く生きるためのヒントになるのではないだろうか。参列者はどれくらいいるだろうか。どれくらいの人が、私の死を悼んでくれるだろうか。そんなことを、折に触れて考えることも、無意味ではないように思える。
そして、その「死」へと続く道を、私たちは「老い」とともに歩んでいく。先日、私は80歳を超えた祖父母、そして母とともに、東京を旅した。この旅行で、私は「老い」と向き合うことの難しさを、改めて実感することになった。
元気な頃の祖父母であれば、東京見物など、心躍る一大イベントだったに違いない。しかし、足腰が弱り、気力も以前ほどではなくなった今の彼らにとって、東京は必ずしも楽しいだけの街ではなかったようだ。
街の喧騒、人混み、飲食店でのモバイルオーダー、徒歩と電車移動が前提の交通システム。デジタル化され、効率化された都市は、確かに便利だ。しかし、それは、ある程度、体力、気力、知力が充実し、新しいものへの順応が容易な人にとっての「便利さ」なのだと気づかされた。
夕食に訪れた、賑やかな居酒屋。慣れない土地で、やっと探し当てたお店だったが、高齢の祖父母には、メニューの選択肢も少なく、周囲の喧騒も負担となったようだ。渋谷に宿を取ったので、祖母を連れ、渋谷スクランブルスクエアや渋谷ヒカリエにも足を運んだ。しかし、「見るものがない」「早く帰ろう」と、楽しんでいる様子はあまりなかった。
また、渋谷から電車で20分ほどの場所に住む友人に会いに行くと言い出した祖父は、普段は10分歩くのがやっと。おまけに、Suicaなどの交通系ICカードも持っていない。乗り換え案内アプリを使いこなせるはずもない。結局、配車アプリ「GO」でタクシーを手配し、目的地まで送ってもらうことになった。電車なら片道わずか160円の距離を、タクシーでは5,000円近くかかる。往復で約1万円の出費だ。
もちろん、事前に準備をしておけば、電車で移動することも不可能ではなかっただろう。しかし、私にとっては当たり前の、スマートフォンでの乗り換え案内検索や、交通系ICカードでのスムーズな移動が、高齢者にとっては、とてつもなく高いハードルに感じられるのだ。
「社会は高齢者を優遇しすぎだ」という声も、確かに存在する。しかし、本当にそうだろうか? 確かに、一部ではそうした側面もあるかもしれない。しかし、私の祖父母のように、肉体的な衰え、認知機能の低下、そして、急速に変化する社会への戸惑いに直面し、日々の生活に困難を感じている高齢者が数多くいることも、また事実ではないだろうか。
ましてや、「理想の最期」を思い描いた時、そこにたどり着くまでの道のり、つまり、「老い」は、緩やかに、そして確実に、人の尊厳を蝕んでいく。自身の衰えを認め、他者の助けを借りなければならないことは、高齢者にとって、後ろめたさや閉塞感に繋がるに違いない。「自分のことは自分でできて当然」「他人に迷惑をかけてはいけない」…そうした、現代社会に蔓延する「自己責任論」は、高齢者の生きづらさを、さらに加速させているのではないだろうか。
幸い、私の祖父母は、経済的には恵まれている。だから、タクシーを利用したり、様々なサービスに頼ったりすることもできる。しかし、もしそうでなければ、彼らの生活は、さらに困難なものになっていただろう。
現在、私は25歳。健康な身体、朝からホイップたっぷりのあんドーナツを頬張れる内臓、そして、柔軟な思考力を持っている。頼れる妻、気の置けない友人、やりがいのある仕事にも恵まれ、これ以上ないほど幸せな日々を送っている。
しかし、この幸せは永遠ではない。私もまた、いつか必ず「老い」を迎え、そして「死」へと向かっていく。その時、私は、どのような人生を振り返り、どのような最期を迎えるのだろうか。
祖父母との旅行は、私に「老い」と「死」について、深く考えさせるきっかけを与えてくれた。そして、それは、今の自分自身の「生き方」を見つめ直す、貴重な機会にもなったのだ。
渋谷のスクランブル交差点で、行き交う人々を眺めながら、私は、遠くない未来の自分自身の姿を、ぼんやりと思い浮かべていた。