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「働き方改革」で「肯定する」って、あまりないような気がする、そんな学校のお話
新聞の人生相談欄が好きな小学生だった私は、相談者の人生を「この人は、夫に馬鹿にされていて自分に自信がなかったけれど、その自信のない自分が嫌だと相談しているんだなぁ。この相談でこんな風に人生が変わるに違いない」などと、勝手に変えていた傲慢な子どもでした。
現在はさすがにそんなことはありませんが、つい読んでしまいます。回答者がどんな人生観から、あるいは思想や生き様から、どう回答されるのかがとっても興味深いからです。
相談者への興味関心が、回答者へと移っていったのは、学校の先生として人の話を聴く機会がとても多いからなんだろうなと思っています。
さて、高橋源一郎さんが回答の中でこんなことをおっしゃっています。
この世界で、わたしが知っている唯一の真理は「愛さなければ、愛されることはない」ということです。(中略)世界から認めてもらうためには、まず世界を認めなければならないのですよ。(毎日新聞「人生相談」より)
この回答を読んで、わたしは「働き方改革」などの学校についての「改革」に、私自身がずっと抱いてきた言葉にしがたい違和感の正体がちょっと見えた気がしました。
少し、話は飛躍するのですが、小中高校で働いたことがある方は、こんな児童生徒の語りを聞いたことがあるのではないでしょうか。
これまでの学校祭のあり方には、○○とか△△といった問題があります。わたしはその問題の解決のために、■■します!
こういうのです。私はこうした生徒の発言や演説を聞くと、いつも「その先輩たちも、前の世代の課題を解決しようとして取り組んだんだよね。そういうことは等閑視しているけれど、それは傲慢だし、自分自身にも跳ね返ってくるんじゃないのかぁ」「自己を相対化できないと自身でいっているようなものだし」
争点をつくって聞く人に自身の主張をわかりやすく伝えるための方便であって、演説する生徒の皆さんは、その後、行事や何やらを動かしていくので良いといえば良いので、生徒に伝えたことはありません。
それは、その生徒たちが実際に学校の行事を動かしていく、「学校を認め行事を愛する人」だからだと、ちょっとすっきりしました。
でも違和感を感じるのは、その生徒たちが自分と同様に学校を認め行事を愛する生徒を「認めない」とばかり表明しているからだとも、ちょっとすっきりしました。
さて、「働き方改革」です。
文部科学省のホームページには、いろんな事例が紹介されています。チェックシートが面白くて、文部科学省が「働き方改革」でどんなことを目指しているのかがわかります。
じつは、私は「働き方改革」には賛成しています。私は問題点は大きく3つあってそれぞれが絡まりあっているのが、教員の仕事を無限大にしている要因だと考えており、その状況は改善すべきだと思うからです。
1,「生徒のため」という抽象的な価値観によって仕事を際限なく増やすことができる
2,「生徒のため」に増やした仕事は減らそうとすると「生徒のためにならない」ので減らしにくく、かつ「生徒のために」と他の教員に強制する心理が働いたり、それを当然とみなす職場の不文律ができてしまう
3,業績や学びの場で起きていること、生徒の変化などを定量的に示すことができにくく、対外的に示すことが難しい場合がある(守秘義務もある)
なので、自分の仕事を客観視して、自分はこういうビジョンを持って、こんなふうに仕事をしよう、と自己調整することが難しくなってしまう場合があるのだろうと思います。
そのため、「働き方改革」がトップダウンで降ってくるのは、自己調整がしにくい状況を変えてくれる点で良いと思います。
ただ、上述した生徒の例のようなことになってしまうと、働く個人も組織も元気をなくしていくんじゃないかとも思うのです。
「これまでの働き方には、こんな問題があった」「だからこう変えるべきだ」
その通りなのですが、「これまでの働き方」をしてきた私は否定されてしまいます。私を否定するばかりの相手が、どんなに「こう変えたら良くなる」と言っても、その意見を受け入れたくなるでしょうか。私は狭量なので嫌です。
すると、せっかく「働き方改革」で生まれた「隙き間」まで憎くなってしまいます。すっきりしない、腹落ちしない気持ちがずっと残ってしまうのではないでしょうか。
働き方「改革」は、「革命」ではないので、それまでの働き方を、そう働いてきた人を断罪する必要はありません。「生徒のため」と働いてきた人や学校のあり様を認めることは、「改革」したい人たちが自身を認めてもらうために必要なのだと高橋さんの回答を読んで思います。
これは、若い頃、あまり人を認める事ができなかった私自身への戒めでもあります。東日本大震災の復興支援に心を砕く生徒たち、時間と労力を費やして「でもぜんぜん役に立ててないんです」とはにかむ生徒たちとともに過ごすことで、その傲慢な私は雲散霧消したのでした。
3月11日がやってきます。生徒たちは企画を考え行動しようとしています。その姿は尊いです。そうした姿を同僚のみなさんとともに目の当たりにしながら、生徒の考える時間や行動する時間、教師の考える時間や行動する時間を尊重していけたら良いな、と思っています。