見出し画像

睡眠薬 - ホラー短編小説

「最近、眠れてる?」

会社帰りの電車で、隣に座る友人の一言が耳に飛び込んだ。確かに、ここ数週間、睡眠が浅い。夜中に何度も目が覚め、朝起きると体が鉛のように重い。残業が続いて疲れているはずなのに、ぐっすり眠れた感覚がない。

「うん、まあ…ちょっと疲れてるかもね。」

友人は軽く頷きながら、ポケットから小さな瓶を取り出した。

「これ、試してみなよ。市販の睡眠薬なんだけど、俺も最近眠れなくてさ、これでぐっすりだよ。」

その瓶は、どこにでもあるような無地のプラスチック容器だった。ラベルには何も書かれていない。ただ蓋を開けると、薄く青みがかった錠剤が数粒見える。

「ありがとう。でも大丈夫だよ、まだそこまでひどくないから。」

と断ったが、友人は強引に手渡してきた。

「まあ、置いておくだけでもいいからさ。辛くなったら使ってみて。結構効くから、半分に割って飲んでもいいかもね。」

その日はそれ以上の会話もなく、帰宅してすぐにベッドに倒れ込んだ。体は限界に近いのに、頭はずっと冴え渡っている。友人からもらった睡眠薬のことが頭に浮かんだが、飲む気にはなれなかった。

そんな夜が続く中、ある日とうとう限界が来た。寝不足が重なり、仕事に集中できないばかりか、頭痛もひどくなっていた。その夜、ベッドに横たわりながら、机の引き出しにしまっておいた睡眠薬の瓶を手に取った。

「半分だけ…」

そう言い聞かせるように、錠剤を割り、水で流し込んだ。

それから数日間は、夢のような日々だった。

薬を飲むと、すぐに深い眠りに落ち、朝にはすっきりと目覚める。これなら毎日仕事も楽になるし、体も軽い。もう何の不安もなかった。しかし、薬が切れる頃、ふと気づいたことがあった。

「薬、残り少ないな…」

友人に頼んでおこうか、そう考えながら、瓶を手に取り、蓋を開けた瞬間、奇妙な感覚が体を包んだ。瓶の中身が、初めて見たときよりも多い。明らかに増えているのだ。

「え…どういうことだ…?」

そんなはずはない、薬を飲んでいるのだから減るのが当たり前だ。それが増えている? 急に気味が悪くなり、薬を飲むのを一旦止めることにした。

だが、その夜から再び、眠れない日々が戻ってきた。いや、前よりも悪化している。夜中に何度も目を覚まし、寝返りを打つたびに、頭の中でささやく声が聞こえる。

「飲めばいいのに…楽になれる…」

幻聴だと自分に言い聞かせたが、日を追うごとにその声は大きくなり、そして…夜が来るのが怖くなった。

ある夜、ついに異変は起きた。

寝室でふと目を覚ますと、部屋の隅に何かがいる。ぼんやりとした視界の中で、それは次第に形を成していった。背の高い、痩せた人影がこちらをじっと見つめている。心臓が激しく鼓動し、体が凍りつく。

「誰だ…?」

声をかけるも、その影は返事をしない。いや、それどころか、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。声が出ない。体が動かない。恐怖で息が詰まりそうになる中、その影はベッドの傍まで来て、口を開いた。

「薬を…飲んで…」

その瞬間、目が覚めた。冷や汗で体中がびっしょりだった。夢…夢だったのか? だが、その夢があまりにも生々しく、現実と区別がつかない。

机の上には、友人からもらった睡眠薬が無造作に置かれている。今まで飲まないようにしていたが、もう限界だった。手に取ると、再び不気味な増え方をしていることに気づいたが、そんなことはもうどうでもいい。とにかく眠りたかった。

一粒、口に含んだ。

翌朝、再び目を覚ますと、奇妙な違和感が体に残った。

薬を飲んだのに、昨夜の記憶がはっきりと残っているのだ。あの影、あの声…。薬の効果でぐっすり眠れるはずなのに、あの恐怖だけが頭の中にこびりついている。

そして、会社に行く準備をしようとベッドから起き上がろうとした瞬間、体が動かない。まるで自分の体が他人のもののように感じられる。目は開いているのに、体はベッドに縛りつけられているかのようだ。

その時、ふと気づいた。

隣に、誰かが横たわっている。

ゆっくりと顔を横に向けると、自分と全く同じ顔をした人物が、ぐっすりと眠っているのが見えた。

「誰だ…? これは…俺…?」

声を出そうとしても、何も出ない。恐怖が全身を駆け巡る中、その「自分」はゆっくりと目を開け、こちらに向かってニヤリと笑った。


【解説】

この話の核心は、睡眠薬を飲んだ主人公が、徐々に「自分自身」が入れ替わっていることに気づいていない点にあります。瓶の中身が増えているという不自然な現象は、ただの錯覚ではなく、実際には薬を飲むたびに「何か」が主人公に浸透していった結果です。そして最終的に、主人公の体は「別の存在」に乗っ取られたようです。最後にベッドで横たわっているのは、本来の主人公ではなく、その体を奪った何者か。その「影」は、実体を持つまで、主人公の夢や幻覚を通じて徐々に現実に侵食していったのでしょう。

あなたも今夜、眠りにつく時、隣に自分が寝ていないか、確認してみた方がいいかもしれません…。

いいなと思ったら応援しよう!