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「逃げろ」「走れるものは走れ-!」

御注意下さい!こちらは、自分の震災での体験、親族から聞いた話に自分の創作を混ぜた話になります。大震災や近頃の災害で被害に遭われ、未だ傷が癒えない方々。また、起こるかもしれない地震に対して不安に思っていらっしゃる方々。たくさんいらっしゃるかと思います。そう言う方々には、読むことをお奨めしません。

「2011年3月11日に起こったこと」の続きになります。

2011年3月11日、私は自宅の庭にいる時に被災しました。とにかく長い地震で、あくまで自分の体感ですが揺れのピークが3回来たような感じです。家からは食器類の壊れる音がガチャンガチャン聞こえてくるし、(いつ終わるんだ、これ)と恐怖感MAX。
ようやく収まったものの、すぐに停電となったためテレビも点けられず今がどういう状況か全く掴めませんでした。

こう言ってはなんですが、宮城県の人はいろんな意味で地震に慣れているほうだと思います。その時も外に出て来たご近所の人たちと
「すごかったね、今の地震。」
「暗くなる前にかたづけよう。」
なんてのんびり話していたくらいです。

そこへ自衛隊のヘリが飛んで来て高度を下げたかと思うと「逃げろ!逃げろ!」「津波が来るぞ!」と叫んだのにはビックリ。(叫んだ内容は正確ではないかもしれません。)

ここまで読んだ方はお気づきになったかと思いますが、今回の「7番目さん」は、その時受けた衝撃が元になっています。
正直うちは海から離れているし、地震のせいで津波が来るということがすぐに結び付きませんでした。でもこれは、すごい危険が迫っているんじゃないかと私でも理解しました。
ただうちの周りってほとんど田んぼで平地なんですよね。
「何処に逃げようか」とご近所さんたちと話し合いましたが、結局学校に逃げました。

私たちは上の階の教室に避難したのですが、あとで聞いた話では体育館に避難したために逆に津波の被害に遭ったという学校もあったようです。やはり津波の時は高いところに逃げるのが基本。何処に逃げようかと右往左往するくらいですから、当時の私たちの多くは、それだけ津波に対する理解が足りなかったということでしょう。

余震が続く暗い教室の中で、ようやく断片的ですが情報が入ってきて、特に福島の原発のニュースには戦慄を覚えました。
日本はどうなるんだろう
それがその時思った偽らざる気持ち。窓から見えるのは遠くで起きている火事。子供の名前を呼びながら教室を一つ一つ探し回る家族の姿。明らかに今まで体験した地震と違うのだけははっきり分かりました。

仙台市には東部を北から南に走る東部道路があるんですが、これが盛土構造になっています。幸いなことにそれが防潮堤みたいな役割を果たしてくれたので、私のいた地域は津波の被害は免れました。
ただ義実家の町は海のそばだったので、壊滅。義両親は偶々その日いなかったので助かりましたが、親戚やご近所の方々は津波に巻き込まれて大勢の方が亡くなったそうです。子供たちを連れてよく遊びに行った思い出の痕跡も残念なことに流れてしまいました。