見出し画像

あの日から一年。

初めまして、よりどころと申します。

初めての記事ではありますが自己紹介はすっ飛ばして、今回は今からちょうど一年前に私に起こった事とそれまでのことをちょこっと……書いていきたいと思います。

自己紹介は別記事でしっかり書きます。
少々長くなってしまいましたが、宜しければご覧いただけますと幸いです。



ちょうど一年前の今日、人生初の入院をした日。

それも待ったなしの即入院。

少し前から身体の異変を感じていた私はいよいよ『死ぬかもしれない』と感じ病院に行ってみた。

病院へ行く前にネットで症状を調べていたけど想像以上に最悪の事態だった。

その時の症状は、とにかく呼吸をするのが苦しい、苦しくて横になって眠れない、足が象の足のようにパンパンにむくんでいる、苦しくて会話もままならない、、、

などなど。

ネットで調べたときそれは『心不全』の症状だった。

なので、循環器内科を受診した。色々検査するときも苦しかった。

そして診断結果はやはり調べていた通り、急性心不全。

なぜこんなになるまで我慢したんだ、よほど頑張ったんだね、と先生に言われたときは泣きそうだった。

その時の私は精神的にも身体的にももうボロボロだったから。

でも、最悪なのはそこじゃなかった。

先生が『深刻なのは心臓よりも腎臓の方かもしれないからすぐに大学病院に行きなさい』と訳の分からないことを言い出したのだ。

言われるがまま、紹介状を手にすぐ近くの大学病院へ向かう道すがら主人に電話をして状況説明と、このまま入院になるかもしれないと伝えた。

息苦しいのに歩きながらなんとか電話していたとき、心細いのとこれからどうなるのか不安で涙がポロポロとこぼれた。

涙を拭いて息を整え(苦しくて整わない)、紹介された大学病院に入る。

そこでも先に循環器に回され、また検査を受ける。

結果、やはり心不全でいつ心臓が止まってもおかしくない、と…。

でもここの循環器の先生もこの心不全は腎臓から来てるかもしれないから腎臓の先生にも見てもらいましょうと。

ここで腎臓専門の先生にバトンタッチ。

腎臓の先生から下された診断は

『末期腎不全』

このまま何もしなければ近いうちに死んでもおかしくない、透析をするか腎臓移植をしなければならないかもしれない…と。

思っていたよりもはるかに悪い状態に血の気が引いた。

とにかく今はすぐに心不全の治療をするために入院してください、と。



当時の私はとある地方で少し小洒落た民宿のような宿泊施設を主人と運営管理をしていた。

経営者は別でいて、私たち夫婦はその宿運営を任されていた形。

ちょうど繁忙期のGWも終わり,落ち着いてはいたけど主人一人に任せられない…。

だけど、もしも死んだら…

主人に連絡を入れて、宿泊予約を止めてもらい入院するしかなかった。

心の準備もないまま入院生活が始まったけど、内心はホッとしている自分もいた…。

というのも、当時の仕事環境に心底疲弊していたからだ。



宿の運営をやるようになったのは2017年。

あるSNSを見ていた時にたまたま宿の管理人募集の広告を目にした。

長年接客業をしていた私はいつか『人が集まる場所を作りたい』というざっくりとした夢があった。

条件などもみて、『これだっ!』って思った。

実はその年の春に主人と車で日本を巡る旅に出ていてその中でまた行きたい場所の一つとしてその県も(かなり広いくくりw)入っていたこともあり運命を感じて主人に相談をしてとにかく面接を受けた。

話を聞いて想像以上に大変な状況なのはわかったし中途半端な気持ちではできないと思ったけどだからこそやりたかったし、絶対に流行らせる自信もあった。

何組かまだ面接が残っているとのことで合否の連絡が来るまで二週間ほどあった。

もし決まったら移住するわけで時間もタイトだった。

まだ自分たちに決まってないけど絶対にやりたかったし選ばれる自信があったから持ち家のことを不動産屋に相談いって売却と賃貸で話を進め、家中の物の断捨離と整理をすでに始めていた。
(今思えばすごい自信と行動力w)

そして、そうこうしているうちに内定の連絡がきた。

あとから聞いた話では20組ほどの応募の中から私たち夫婦を選んでいただいたようで本当に嬉しかったと同時に身の引き締まる思いだったのを今でも覚えている。

そんな経緯があり縁もゆかりもないその土地へ移住し、宿泊施設の女将としての人生が始まった。(大げさ)


本当にやる気に満ちていたし、ど素人ながらもどんどん仕掛けていった。

細かいことは割愛するけど、ゼロもしくはマイナスからのスタートだった初年度は十分に手ごたえがあったし、いけるって思った!

観光地でもなく、陸続きでは来られない、全国的には無名の場所でやっていたけど、お客様との距離が近いとてもアットホームな宿運営が出来ていたし、どうやってみんなこんな辺鄙な場所(訪れたことのある県だけど、この場所は知らず。この仕事がなかったら私は知ることもなかったような場所)に辿り着くのだろう?と不思議で仕方ないぐらい全国から来ていただいた。(実際、ほとんどのお客様にいったいどうやってうちに辿り着いたのか質問していたほど、謎だった)

私達がやった期間はたった2年ほどだったけど、その間に3回4回とリピートで来てくださる方が何組もいるほどリピーター率も高くてお客様との交流は本当に楽しかった!



だけど経営陣の話はどんどん変わっていき、もっとできるだろうと要求がきつくなっていった。

彼らは数字がすべてでその裏にある現場の大変さやイレギュラーなどは関係なくもっともっとと要求してくる。

もちろん、私たちも数字を意識していたし自分たちのキャパを超えて朝から晩まで動いたし、アイデアも出し合って色々チャレンジした。

海辺の宿なのでオンシーズン・オフシーズンがはっきりしていたため冬場が課題だった。

宿をあけつつ、あれもやれこれもやれ…支離滅裂なことを言われ続け、こちらの意見は受け入れてもらえない、私たちの声は届かない。

一緒にチームを組んでやっていたはずなのに結果が悪ければ全て私たちのせい、数字が良かったらもっとできるだろうと言われる。

そんな二回目の冬を迎えた頃のミーティングの時にもうどんなに頑張ってもなにも伝わらない、分かち合えないことに心がぽっきりと折れた音が聞こえた。

もうこれ以上は続けられない、今すぐ辞めたい、主人とも話しお互いの気持ちは一致していたけど、契約上今こちらの都合で辞めたら莫大な違約金がかかることになっていた為、なかなか決断できずそこからはどうしたらこの環境から抜け出せるか、何か不可抗力なことが起きて辞めざるを得ない状況に陥らないか…そんなことばかりを考えて過ごしていた。

状況が好転しないまま時間だけが流れて連日ほぼ満室のGWを迎える。

同時に私の精神状態と身体の状態はピークに悪く、この時すでに話すのも、少し歩くだけでも苦しい状態(心不全)になっていた。

でもまさか自分が心不全に陥っているとは思わず極度のストレスによる喘息だと思い込んで最後の精神力を振り絞り何とかGWを乗り切った。

(我ながら死なずに本当によく頑張ったと思うw)

そして『どれだけ莫大な違約金を払うことになってももう辞めよう、私は一刻も早くここから逃げたい。じゃないと自分が壊れる』と、主人に訴えて主人も何とか承諾してくれた。

すぐにオーナーに連絡し話がしたいと伝え、いよいよ話し合い、という日の数日前に私は入院した。それが今日から一年前のこと。


『ああ、私は自ら病気になることで自分の心を救ったんだ。』

身体が犠牲になってくれた、本気でそう思った。
そりゃそうだよね、心と身体は繋がってるから。

だから私は一年前の今日、絶望と安堵の狭間にいた。

病気で死ぬかもしれないことよりも死んだも同然の心のままあの場所にいることの方が耐えられなかったかもしれない。

『入院・その後』編に詳しく書きますが、誰よりも迷惑をかけた主人をはじめ、当時大変ご迷惑をおかけした方々には心より申し訳なく思っていると同時に心より感謝をしています。

ただ、自分のことに関して言えばあの時あのタイミングで病気になったことに一切の後悔はないしむしろよくやった、自分、と思っています。

あの日から一年が経ち、振り返ってみるとあの場所から抜け出して今こうして生きてこのブログを書けていること、いろいろありながらも穏やかに平凡に暮らしている今がとても幸せなことなんだと実感しています。


『入院、その後』についてはまた近いうちにアップします。

短縮したつもりでしたが長々と書いてしまいました。

最後までお読みいただきましてありがとうございます。