マロオケのこと vol.6
マロオケで演奏する6つの交響曲、この選曲は熟考したわけでもなく、単にわたしがやりたい曲を、つまりこの曲をマロオケで聴きたいという基準でいわばひらめきで選んだものだった。
しかし、数あるモーツァルトの交響曲といっても、実際には後期の三曲、そして25番、29番、31番、35番、36番、38番くらいしか知られていないから、この選曲は一日で6つもやるというスケールを除けば、とても自然なものだと思う。
オープニングには第35番「ハフナー」でもいける。とはいえ、35番はほとんど迷うことなく、プログラムには入れなかった。
なぜなら、記念すべきマロオケの東京初公演は、あの25番の、いきなりトップスピードで始まる劇的なシンコペーションで幕開けるのがふさわしいと頭の中では決まっていたからだった。
この提案にマロさんが、
「25番をやると、ホルンが4管になるけど大丈夫?」
と言ったのは、他の曲はすべてホルンが2管だから、25番のためだけにホルン2人分のギャラがコストとして多くかかるという意味。
でも、わたしは25番がオープニングであることがこのコンサートの必須条件だったから、「いいですよ」と即答した。
もし35番をオープニングにすれば、コストは下がる。しかし、金勘定を優先して25番をあきらめてしまっては、必ず自分が後悔する。ベストだと思う曲目を安くなるからという理由でやめていては、いい演奏会にならない。
今回のプログラムは25番を入れたことで、より引き締まったものになったと思う。なぜなら、25番は短調だから。
モーツァルトは41番までの交響曲で短調は25番と40番の2曲しか作っていない。もし35番をやれば、短調は40番だけになり、それを三部構成でやることになってしまう。
35番をオープニングにして、2曲目が36番だったら、長調の連続で、聴いていて退屈してくるだろう。
しかし、第一部が短調、長調、第二部が長調、長調、そしてラストが短調、長調。これで随分、メリハリがつく。
オールモーツァルトだけれど、飽きが来ない曲目になったと思う。
最後の41番ジュピターがハ長調であるというのは王道で、モーツァルトはジュピターで作曲を終えるつもりはなかっただろうけれど、ハ長調で彼の交響曲が終わるのはたまらないものがある。
ともかく、後期三大交響曲はある短い時期にモーツァルトが一気に書き上げたゆえにCDなどもこれをひとかたまりにする扱いがスタンダードになっている。
ところが曲順に関しては、わたしに強い思いがあって、その妄想は後期三大を曲順にするのではなく、第38番「プラハ」と第41番「ジュピター」をコンサートの最後である第三部に持ってくるというものだった。
38番と41番をセットにするなんてことはCDでも見たことはないし、ましてや演奏もされない。しかし、38番の次に41番をやりたかった。
わたしは38番と41番は音楽の内容としてセットだと思う。いや、むしろつながっていると言ってもいい。
しかし、そんな解釈は見たことがなく、同時期に一気に書かれた後期三大がセットという見方がばかりだ。
音楽に正解はないから、これはわたしの解釈、というよりもその曲からわたしが感じるものだが、第38番は人間がいよいよ寿命を尽きるそのときの、自分の生きてきた軌跡を振り返った思いが38番にはエッセンスとして入っている気がする。
もちろん、それはそのひとの生き様によって最期の回想はそれぞれだろうけれど、できれば第38番が鳴り響くような最期を迎えたいと思う。
モーツァルトは長調がほとんどだと言っても、他の作曲家がモーツァルトに遠く及ばない点は、長調の中に猛烈な哀しさを織り交ぜることではないだろうか。
短調で思い切り悲劇的に描くのは簡単。しかし、明るさの中に哀しさを感じさせるのはやろうと思って作れるものではない。
人間の生はいいことばかりでなく、また悪いことばかりでもない。それらが陰陽となって混ざり合い、グラデーションになっているのが生きるということに違いない。
モーツァルトの音楽にある長調の裏側ある哀しさ。暗く描いていないのにどこか寂しさや絶望、そういったものを感じる瞬間がある。
それが最も色濃く出ているのが第38番「プラハ」だとわたしは思う。
だから、あの曲は人間の生が終わるときの音楽で、生き切った清々しさがあり、喜びの中に悲しみがあり、そして今生への別れにためらいがない旋律に思える。そこで人間は初めて自分の生を愛することができる。
そして、第41番「ジュピター」。この曲は人間の生を超えたいわば天界の音楽で神々しい。
死後の世界、さらにもっと高次元の世界。ジュピターは充実した生をやりきった人間の魂が迎え入れられる天界に響く音楽。
だから、ジュピターには人間臭さがなく、その楽譜を見ても数学的な模様になっていて、無駄は一切なく、完璧すぎて美しい。
そういう意味で、死後の世界を否定していると、ジュピターにある天界の輝きをその音から感じることはできないだろう。
物質である肉体を超えた想念の世界、それも神に近いステージの世界。そこに鳴り響く音楽がジュピターであって、モーツァルトはそれを受信し、楽譜にした。わたしはそう思っている。
だから、この世の生が尽きる最期と、死して肉体を失い、魂の想念となった人間が迎え入れられる入口がジュピターの冒頭という意味で、38番と41番は内容的にセットとしてつながっている。
このように考えているから、わたしはマロさんに非常識な提案をした。それは曲順を38番と41番にするということだけでなく、38番の最終楽章が終わったら、ブレス一発でそのままジュピターに入る、つまりアタッカで38番と41番をつなげてできないかというものだった。
しかし、これをやるには大きな物理的な問題があった。音楽的な意味合いでない困難があった。
(vol.7に続く)
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