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「おかえり」お盆の哀ホラー読切ショートショート

 寂れた小さな駅から川沿いをゆっくり歩いた。白の軽トラックが頼りないエンジン音をうならせてわたしの横を通り過ぎる。
 車通りも人通りも少ない静かな夕暮れ時。一日の終わりのどこかしんみりした空気と、カナカナカナと哀愁を漂わせるヒグラシの鳴き声。 
 久しぶりに訪れた故郷の風景はまったく変わっていなかった。営業しているのかどうか分からない古びた喫茶店、畑、木々が生い茂ってうっそうとした神社、田んぼ。それらをながめながらのんびり歩いて、やがて一軒の日本家屋にたどりついた。
 灰色の屋根瓦、茶色いトタンの外壁、一昔前の型の乗用車。庭から白く細い煙がゆったりと空に昇っていて、母が一人、煙を見上げていた。
 帰って来るたびに体が小さくなっているような気がして不安になるが、それを悟られないように明るい声で「ただいま」と声を掛けた。
 母は顔をこちらに向けると優しく目を細めて「おかえり」と小さな声でつぶやいた。わたしの後ろを見て「おじいちゃん、おばあちゃんもおかえりなさい」と続けたので振り返ると、畑仕事でもしていたかのような服装をした二人が笑顔で立っていた。
「帰って来た、帰って来た」おじいちゃんは嬉しそうに言いながら家の中へ入っていき、おばあちゃんも続いた。
「さあ、入って」母に促されて玄関に入ると、履きつぶしたわたしのスニーカーが目に入った。捨てていいのにと思ったけれど母の想いが分かっているので、それを口には出せなかった。
 玄関を上がって開いたままの引き違い戸から居間をのぞくと、そこには胡坐をかいてこちらに背を向けた父がいた。あんなに頼もしかった広い背中が小さく寂しげに見えて、直視するのが辛くなる。
 開け放たれた掃き出し窓、軒にぶらさがった風鈴と縁側に置かれた蚊取り線香、古くなった扇風機、ところどころすり切れた畳と黄色を帯びた漆喰の壁、電気をつけているのに何となくうす暗い室内。 
 全く変わっていない居間の様子に時間が止まっているかのような錯覚が起きた。あれから何年たったのか分からなくなる。
 父の斜め前に正座をして「ただいま、お父さん」と声を掛けると、「帰って来たのか」とテレビに顔を向けたままひとり言のようにつぶやいた。
 眉根をぐっと寄せて不機嫌そうな顔。去年も、おととしも、その前の年もこうだった。今年もだめか。話したいことはたくさんあるのに言葉がでてこない。それに話をしたところで父は聞く耳を持たない。
「さあ、ご飯にしましょう」居間に隣接しているキッチン兼ダイニングから母の明るい声が聞こえた。
 おじいちゃんとおばあちゃんがすでに席についていて、おじいちゃんがわたしを手招きして「お前の好きなものばかりだぞ」と笑った。テーブルにはいなりずし、豚汁、おはぎ、ブドウが並べられている。
 居間から父がふらりとやって来てテーブルにつくと「作りすぎじゃないか、こんなに食べきれないだろう」と険しい顔をした。母は「いいじゃないの」と軽くおどけた。
「いいじゃないか。わしらはうれしいぞ。なぁばあさん」
「ええ、嬉しいわ。ありがとうねぇ」
「わたしの大好物ばかり。ありがとう、お母さん」
 母は「ふふっ」と静かに笑って、父は分かりやすく不機嫌そうに「ふんっ」と鼻をならした。あまり食が進まないのか手酌で缶ビールをグラスに注ぐと、いなりずしをつまみにちびりちびりと呑み始めた。
「せっかく家族がそろったというのに、我が息子ながら辛気臭いやつだなぁ」とおじいちゃんが呆れたように言ったけれど、父は何も聞いていないみたいでテーブルの一点を見つめたまま顔を上げない。
 おじいちゃんとおばあちゃんはご機嫌におしゃべりを続けて、母は静かに箸を動かしていて、父はずっと怒っているようで、わたしはその様子をちらちらとうかがっていた。
 父はいなりずしを二個つまんだだけで、ビールも残したまま「風呂に入ってくる」と言って席を立った。おじいちゃんがやれやれといった感じで肩をすくめて、おばあちゃんは小さくため息をついて、お母さんは暗い空気を払拭するように「おいしくできたわぁ」と明るく言って何個目かのいなりずしを頬張った。
 父に対してなすすべもなく肩を落としていると、ふと軒先に気配を感じたのでパッと顔を上げた。
 黒い人の影のようなものが複数、電波の悪い映像のように出たり消えたりしている。
 おばあちゃんが「あらあら」とのん気な声を出して母に目配せした。母は訳知り顔で軽くうなずくと食器棚から皿を出し、いなりずしやおはぎを何個かうつして縁側にそっと置いた。
「せっかくの家族団らんを邪魔せんでくれ」とおじいちゃんがピシャリと言った。
 黒い影は家の中までは入ってこない。何をするでもなく大人しく庭にいる。
「帰って来たのに行くべきところがないのね」母が寂しそうにつぶやいた。
「おばあちゃんたちはここに帰って来られたけれど……」おばあちゃんも寂しそうにつぶやいた。
 迎えてくれる人がいない場合はどこに行けばいいのだろう。父と母がいなくなって、帰る家もなくなったら、この影みたいに縁もゆかりもない所をうろうろするしかないのだろうか。
「ごめん、わたしのせいで……」と言うと、みんな慌てたように「違う、そういうことじゃないのよ」「おばあちゃんが余計なこと言ってしまったねぇ」「お前のせいじゃない」と口々に言った。
 いつかみんな、あの影のようになってしまうのだろうか。影をそっと見るけれど、そこに悲壮のようなものは感じなかったので少しだけほっとした。
 お風呂から上がった父が縁側の皿を見て「何だこれは」と不機嫌そうに言ったから「ぺろちゃんのよぉ」と母は数年前に亡くなった飼い猫の名前を出した。
 ぺろはここにはいない。人間の知り合いより猫の知り合いの方に行っているのかもしれない。昔から自由きままなやつだったから。
 
 数日、実家で過ごした。何をするでもなく。おじいちゃんとおばあちゃんと話をしたり母と話をしたり、父に話しかけてみたけれど無視されたり、近所を散歩したり、友達の家をのぞいたり。
 
  何日目かの夕方、母が庭で何かを燃やし始めたので、その時が来てしまったことに気がついた。おじいちゃんとおばあちゃんは「楽しかったぞ」「ありがとうねぇ」と大きく手を振って早々と去っていった。
 わたしは庭にたたずみ煙の行方を見守る母の隣にそっと寄り添った。
「お母さん」
「なあに」
「ごめんね、先に死んじゃって」
 やや間があいたのち、隣から嗚咽が聞こえてきた。
「謝らなくていいんだよ、あんたが悪いんじゃない。こればっかりはね、どうしようもない」
 母は自分に言い聞かせるように「しかたがない、しかたがない」とくりかえした。
「お父さんのこと、悪く思わないでね。ああして怒っていないと気持ちが保てないんだよ」
「うん、分かってる」
 もう来ない方がいいのかな、と思った。霊が見える母に、わたしが死んだことをつきつけてしまって辛い思いをさせているような気がしたから。
「また、来年。待っているからね」わたしの考えを読んだかのように母が言った。その口調は強く、何の迷いもなかった。
「いなりずし、お願いね」
 顔を見合わせて、お互いゆったりと笑った。
「お父さんも、またね」
 見えていないけれど何となく気配は感じているかもしれない父に声を掛けた。仏壇の前に座ってぴくりとも動かない。聞こえていないか。来年こそは眉間のしわがなくなっているといいけれど。
 ふわり、けむりがわたしを包んで、戻るべきところに引っ張られるような感覚がした。
 また、来年。

(了)


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