大丈夫になるための
たとえば、この香水が底を尽きたら次はどんな香りのものを選ぼうかと考えている時、この本を読み終わったら次はどれにしようかと考えている時。次に舞い込んでくるあたらしい風を想像して一瞬の幸せを感じたあと、それらを取り残してとんでもない不安を感じてしまうことがある
常に私の頭の中には「しめきり」のようなものが存在していて、それは学校の課題みたいな、外部から与えられるものではなく(課題の締切に頭を悩ませているのもまた、毎度のことだけど)それとは別に、セミが鳴かなくなるまでには全部大丈夫になっていたいだとか、マフラーを巻いて自転車に乗る頃までには夜中にひとりで泣くのをやめたいとか。
でも私は、これまでの人生で大丈夫になれたことなんてなかったし、いつだって涙は溢れるし、しめきりを破ってばかりだ。だから次につける香水を選んでる数ヶ月先のわたしも、次に読む本を選んでるちょっと先の私もきっと大丈夫じゃない私のままなんだろうなぁって思ったら、いつ大丈夫になれるんだろうってまた、泣くしかなかったりする。
ツイッターで100日後に死ぬワニが掲載されていた頃、100日目を迎えた日、軽薄なことにわにくんの死を悼むよりも、1日目から100日目の間に自分が「やらなかったこと」と「できなかったこと」を考えて軽く鬱になった。わにくんがひよこを助けたり、バイト先の女の子に恋をしている間、1年の3分の1弱、私はなにをしてたんだろう。
人生の中で自分がすごす日数をちゃんと数えることって滅多にない。だから私はその稀な期間、100日目までカウントダウンされていくのを見て、「何もしなかった日」「大丈夫じゃなかった日」が積み重なっていく恐怖を感じながら、ひっそりとわにくんを見守っていた。
さっきから「大丈夫になりたい、大丈夫になりたい」としきりに言っているけれど、それが具体的にどんな状態のことを指すのかは不明瞭だ。でもいつからか、私の人生の目標はずっとこれで、お守りの言葉みたいになってた。
すごく辛かった時、「将来に対するぼんやりとした不安」という理由で自死を選んだ芥川龍之介に対して、憧れともまた違う、でもそれに限りなく近い、なにか彼の眼差していた世界に共感したくなるような気持ちを抱いた。
死ぬことと、生きるのをやめることって同じようで違う気がしてる。私の言う「大丈夫になりたい」のなかに、大丈夫になるために死ぬ、という選択肢はないけれど、大丈夫になるために生きるのをやめるという選択肢はある。芥川龍之介は、後者なのだと、私は勝手に思っている。
ぼんやりとした不安で生きるのをやめてもいいし、ぼんやりとした光を探しながら生きてみてもいい。私にとっての大丈夫になるための道とはそういうことなのだと、思う。
今日の私が大丈夫になれるようにお祈りしながら、ピンク色のあまい香水をひとふりする。そのくせ、未来が来ないように、時間が止まったみたいにずっとずっと、なくならなきゃいいのにねって思ったりもした。