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友人を自殺で亡くした1人の話
私は数年前に友人を自殺で亡くしました。
大学時代の友人で、
彼女は誰よりも私のことを知っていたし、
数え切れないくらいたくさん話をしたし、
何より、どうでもいい、話や報告ができる唯一の人でした。
亡くなる日の朝まで連絡も取っていましたし、
死のうと覚悟したきっかけも知っていました。
そして、私は彼女が、私と出会うずっと前から
死にたがっていることもずっと知っていました。
私が彼女に出会ってから彼女が亡くなるまではたったの3年でした。
今思うと、とてつもなく濃く長く夢だったかのように淡い3年間でした。
彼女は私に初めて会った時から、私を好きだったと言っていました。
きっと彼女が私を好きでいてくれたから、
今でもここまで私は彼女を尊く思っているし、
こんなに今でも私の心の隅に彼女がいるのでしょう。
彼女の苦手な部分もありました。
物事をはっきり言って、言い方がキツイところ。
それは本人にも伝えたことがあったけれど、
その度、彼女は『あなたも人として最低だよ』と私に言っていました。
何しろ私の彼女への態度は酷い時がありました。
私のことが好きだと言ってくれた彼女に、
何をしても何を言っても私のことを好きでいてくれるのだろうかと
試すように接していた時がありました。
それは当時は無意識で、そう接してしまっていたと思います。
今思うと、なんて幼稚で失礼なことを彼女にしていたのかと思います。
このことは彼女が亡くなる半年前に伝えていました。
その時、彼女は私に対して、
長く好きでいすぎて、
もう依存とか執着に近いのかもしれないと話していました。
ちゃんと今までの私たちの関係について話し合って、
お互いすれ違って、1番理解し合っているのに遠回りしすぎてしまった。
大切な友人としてこれからもよろしくね、そう話し合った7ヶ月後
彼女は自ら命を絶ちました。
きっかけは私とは無関係のことでしたが、
それはただのきっかけであって、自殺する原因ではありません。
私と出会う前から、彼女には希死念慮があって、うつ病を患っていました。
私も受験期に鬱状態になり、それから今に至るまでずっと“死ぬ“という選択肢が心から消えません。
彼女ともよく希死念慮や自分たちの精神状態、死生観、日々考えてることを話し合っていました。
それが自分の考えの整理になっていたし、
そんな“死”というテーマをこんな風に話し合える友人は
彼女しかいませんでした。
だからこそ、とても大切でかけがえのない、
本音を言えば失いたくなかった友人です。
彼女が亡くなってからの数年間、彼女のことを考えなかった日がありません。
美味しいものを食べたとき、
月が綺麗だったとき、
夕日が綺麗だったとき、
綺麗な花を見たとき、
しんどいことがあったとき、
暇で誰かと話したいとき、
どうでもいいことを言いたいとき、
そんなとき、いつも彼女に言いたくなるのです。
彼女なら
私が月が綺麗と言えば、
外にわざわざ行ってまで月を見て『本当に綺麗だね』と返してくれるのです。
私は彼女のそんなところが好きでした。
それは彼女が私を好きでいてくれたからかもしれませんが、
そういうところがとてつもなく好きで今でも思い出すと心が温かくなります。
彼女が亡くなる1ヶ月前、
私は駅のホームから見える月が綺麗で、彼女に写真を送ったことがありました。
その時もわざわざ外に出て、月を見に行ってくれて、
『綺麗だね』と言ってくれました。
そのとき、私は突然彼女に
あなたはとても大切な友人で大事に思っているよ、と伝えました。
今でも覚えていますが、その時は今伝えなきゃと強く思って、そう伝えました。
彼女も『私もあなたが大切な友人だと思っているよ』と返してくれました。
彼女が亡くなった今、そのやりとりが私の支えになっています。
彼女が命を断つ前に
私にとって彼女が大切な存在であることを
伝えることができたからです。
酔っ払った夜は彼女によく電話していました。
それは今でも、出ないとわかっていてもついついかけてしまいます。
電話をかけるたびに彼女が本当にいないのかと確認しています。
私は彼女の遺体も見ていない。
お骨の前でお線香をあげただけで、
隣に笑顔の彼女の写真が置かれていても、
彼女が本当に死んでしまったのか、今でも実感が湧いていないのです。
だから何度も電話をかけています。
それでも、きっとこの先、
彼女が本当にいなくなったんだと実感することはないでしょう。
彼女が亡くなって数年経ちますが、
私だけが歳をとって、今日も生きてしまっていて、
置いていかれたなぁと毎日思う日々です。
そして、私や世の中はどんどん歳をとって、時が過ぎ、
彼女が死んだあの日にあの時間に、彼女を置いていってしまうよとも思います。
彼女が生きていない今この時を、私は生きていて、
どんどん進んでいっているんだなぁと切なくもなります。
今、彼女が命を断つその時に戻れたとしても、
私は彼女を止めないでしょう。
大切な友人でとても大事に思っていたと、改めて伝えるくらいで
『死ぬな』なんて無責任なことは言わないでしょう。
よく自殺のニュースが流れるたびに
『死んではダメだ』とか『死ぬことないのに』とか
『自殺は良くないよね』と言っている人を見かけます。
私はそんな人を見るたびに
“死”が選択肢に入るほど、悩みに悩んだ苦しんだ人の
最後の選択まで否定しないであげてほしいと思います。
そして、なぜ死ぬことが悪いことなのでしょうか。
人はみんな最後に待っているのは“死”です。
これは誰でももれなく待っている最後です。
私たちが日常生活で何を食べよう、何をしようと考えるように
“死”という選択肢があってもいいと私は思うのです。
決して自殺を勧めるような意味ではなく、
自殺を“悪いこと“とカテゴライズするのをやめてほしいのです。
そして、今から書くことはあくまで私の考えなのですが、
“死”が選択肢に入ると、何をしていても
まぁ最悪死ねばいいかと思い、
何にでも挑戦できるし、特に何も気にしなくなります。
これは死にたいと思ったその時に身についた考えというより、
“死”が選択肢に入った時の後遺症でしょう。
ですが、後遺症といっても、悪いことではないと今では思うのです。
“どうせ死ぬんだから“という考えは、
何に対しても執着しなくなりますし、何に対しても期待しなくなります。
この考えを聞いて、寂しいとか悲しいと思う人がいるかもしれませんが、
これが自分のしんどさや苦しさを軽減する方法なのです。
一度でも“死ぬ”ことが選択肢に入ってしまうと、
それは環境や周りにいる人が変わっても、
ずっとその選択肢が消えることはないです。
ですが、その選択肢が自分を救う時もあるのです。
だからこそ、“死にたい”と思うことを否定しないでほしいと思います。
どんな考えであっても、思うことも心に持つ事も自由ですが、
誰かに押し付けることはしないでほしいと思います。
また、彼女に想う事があれば、ここで綴ってみたいと思います。
君の好きだといってた本も花も、忘れず覚えているよ。
君がちゃんと死にたがっていたのは知っていたからこそ、
ちゃんと遂げられて良かったと思っているよ。
ありがとう、出会ってくれて。