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【正史三国志 Part.3】転勤族から経営者(皇帝)となった劉備 〜束の間の栄光と挫折、そして滅びの道へ〜
皆様、いかがお過ごしでしょうか。僕の方はスタッフさんやボランティアさんが連携して先週にジャガイモを植えてくれました。ブロッコリーの植付準備も進んでいるので、ここも連携しつつ進めて参ります。
さて、書き続けてきた「正史三国志」の話ですが、ようやく最後の物語。蜀王朝の話です。結論としては「血気に逸って事を起こしてはならない」ということです。蜀王朝が滅亡した理由は魏王朝や呉王朝と違って内乱によるものではないので、それだけは諸葛孔明の大いなる功績と言っても過言ではないでしょう。
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「三国志演義」において主役級の3人。劉備玄徳と関羽雲長、そして張飛益徳。この3人を抜きに蜀の歴史は語れないでしょう。そして、「三国志演義」をベースにした横山光輝さんの「三国志」と吉川英治さんの「三国志」。
「三国志演義」の中では桃園の誓いを立てて「生まれた場所と生まれた時は違うが、同じ年月に生死を共にすることを誓う」という誓いを史実においては立てていないことが「正史三国志」によって明らかにされています。出会い方についても詳細に描かれておらず、「兄弟のようによく親しんだ」といった感じの記述のみ。
「正史三国志」の著者である陳寿の出身地は蜀であることは知られておりますが、その祖国に関する史書は四巻ある「魏書」と違って一巻の史書しかありません。陳寿は蜀王朝の滅亡後に晋王朝お抱えの文官になったこともあり、上司でもある当時の皇帝・司馬炎を怒らせることのないように配慮しつつ、晋王朝を持ち上げる記述をしなければならない制約があったでしょうから、苦しい心境ではあったとは思いますけれども、残したのではないだろうかと思われます。
三国志から見た蜀からの視点
三国時代の中で一番小さかった国と言っていい蜀王朝。元々、根無し草だった人間たちが集まって建国する訳ですが、最初はこのような感じでした。
劉備は元々は草鞋売り
関羽は元々はナッツ、あるいは塩の密売人だったと言われている
張飛は肉売りの商売人だった
諸葛孔明は20代後半まではほぼ無職暮らし
これだけ見てもどうやって上がっていくのかという状態です。上を見ればハイスペックのエリート曹操が勢力を次々と伸ばしている。南を見れば箱庭育ちのお坊ちゃん孫権がいる。ハンディはかなり大きなものがありました。
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見て頂くと分かりますが、二国とはこれだけの差があります。そんな状況下で持ち堪えたのは諸葛孔明の政治手腕によるものなので、実に優秀極まりないとしか言いようがありません。
劉備・関羽・張飛の凸凹の3トリオ
「桃園の誓い」を結んでいないものの、何故だか集まってしまった3人。
根無し草で各地を転々とする生活
会社を次々と渡り歩くように、頼る人間を次から次へと変え歩く劉備
酒によるトラブルをやたらと起こしてしまう張飛
下の者には極めて温厚だが、上の人間に対してはとにかく横柄だった関羽
武力があっても戦略を担える人物がいなかった
三者三様の人間模様があって、それでも喜怒哀楽を共にして駆け抜けていく。現代においてはベンチャー企業や中小企業の経営にも通ずるところがあるかもしれません。
劉備はなぜ皇帝になれたのか?
そもそも曹操や孫権のような初めから恵まれていた人間たちと違って、何も持っていなかった劉備がなぜ皇帝になれたのかを考えたら3つの要因があったように思えます。
巴蜀経済圏と漢中経済圏、そして土地の肥沃さに目を付けた
戦略を担える人物として諸葛孔明が加わった
赤壁、漢中争奪戦で敵将・夏侯淵を戦死させるなど魏王朝に一矢報いた
劉備は各地を転々とするものの、「自分はなぜ領地をいつになっても持てないのか」と流転生活の中で思うと同時に酒浸りの生活になってしまっていて、「髀肉の嘆」という故事が生まれるほどの有様でした。
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ある時に諸葛孔明の存在を知ってから、「蜀を手に入れましょう」という言葉があって初めてリーダーとしての自覚が芽生えたのではないかと想像します。劉備が諸葛孔明に出会ったのは40代の時。
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40代の人間が20代の若者にプライドを捨ててでも頼みに行ってスカウトしたところを見ると、時にプライドを捨ててでも目的達成にこだわることの重要性を諭されている気がします。そんな劉備も一つ、ずば抜けた能力がありました。「人を見抜く力」でした。馬謖のことも諸葛孔明に「あの男は口が上手いだけだから重要な場面で決して起用するな」と忠告していましたが、諸葛孔明は馬謖を寵愛していたために起用してしまい、手痛い敗退を喫してしまいました。しかし、どの道、魏へと行く王道のルートを塞がれてしまったので馬謖がいなくとも状況が一気に変わることはなかったように感じます。
蜀の特色
元々は劉璋という暗愚な人間が治めていた蜀。最終的に諸葛孔明の入れ知恵で奪い取ったこともあって、徴税一つ取っても自分たちで収入源となるビジネスを立ち上げなければならなかったらしく、運営自体に相当困難が多かった記述もあって、大企業的な魏王朝や呉王朝と違って、ベンチャー企業ならではの苦難が伺えます。
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四川料理と呼ばれる程に食文化が豊か
農業地帯ゆえに諸葛孔明が目を付けた
巴蜀経済圏・漢中経済圏と呼ばれる経済圏があった
劉備が凡庸だったものの、人たらしで任せるところは任せた
蜀は規模や人数で劣るとは言え、諸葛孔明が劉備の死後には法律をしっかりと作って公平に運営することを心がけたために農民反乱といったものも起こらず、優先順位を付けてやるべきことをやってきた印象があります。
蜀の滅亡要因
そんな蜀も諸葛孔明が五丈原で力尽きた後に滅亡へと突き進みます。
国土が小さかった
関羽の失態が原因となった呉王朝との関係悪化
激情に任せた劉備の無謀極まりない出兵による大敗北
名将たちの相次ぐ死
人材の育成に失敗してしまった
重要拠点・荊州を司馬懿仲達に制圧されて北伐するしかなくなった
諸葛孔明が仕事を自分で抱え過ぎた結果、過労死した
滅亡原因として大きかったのは2と3によるものと想像しますが、拡大期というのは欲が留めなく出てくるのでしょう。しかし、拡大している時こそ本来の目的を見失わないことの重要性を諭してくれている事例でもあるように感じられます。
僕が蜀王朝に関して感じたこと①
僕個人の所感を綴ってみようと思います。
劉備は感情に任せて呉王朝と戦ってはいけなかった
先の「夷陵の戦い」で国力を大幅に減退させてしまった
失敗してもすぐに立て直せるようなリスク管理をしなければならない
諸葛孔明が止めたにも関わらず、制止を振り切ってでも呉王朝との戦いに乗り出してしまったところに人間臭さは感じますが、結果としては50万にも及ぶ大軍勢を揃えてまで挑んだ戦いに大敗して、国力を大幅に減退させてしまったことは紛れもなく事実ですから、諸葛孔明は6年間もの間、兵を動かせなかったために内政をやるしかなかった事情があったでしょう。それがなければ荊州を奪取して次の展開も可能だったかもしれません。
僕が蜀王朝に関して感じたこと②
現代においても参考になる部分はあるなと感じました。
人に仕事を任せていけなかった諸葛孔明の限界
結果として人材の育成に失敗してしまった
諸葛孔明は魏や呉に仕えられただろうけれども仕えなかった
小国だからこそ出来る戦いをし続けてきた印象がある
結局はどれだけ凄くとも一人でやれることには限界があります。だからこそ、苦手だと思うことはスタッフに力を借りて進めることが出来ることが組織の良さでもあります。それは当然、人材育成にも直結します。蜀王朝の滅亡はそのことの不変性を再確認させてくれる故事そのものです。
それと何故ここまで諸葛孔明が蜀王朝のために力を尽くしたのだろうかと考えたら、自分の力が超大国である魏王朝や呉王朝で用いれらないであろうことを感じて、自分の力を最大限活かせるであろうベンチャー企業へと入社したあたりは「人から認められたい、必要だと思われたい」という今も変わらない人間の心情の本質から成る行動原理だったのだろうと想像すると、1800年以上前の物語とは言え、万古不易の真理を今に伝えてくれています。
三国志について感じること
そんな「正史三国志」に関して滅茶苦茶ながら魏・呉・蜀とそれぞれに書き綴ってみました。結果として、どれも完璧な国はなく、完璧な人物もいない。桃源郷があることを信じてフラフラしたものの、桃源郷も見つからず、青い鳥も見つからなかったからこそ、奪い取って蜀王朝を建国して桃源郷にしようとした劉備たちでしたが、最終的にその夢は叶いませんでした。
曹操も儒教という軛から解き放つべく斬新なアイディアを打ち出し続けましたが、やはり大企業病の故なのか、最後は門閥貴族ばかりが跋扈して不正が横行し、軍師に過ぎなかった人間に簒奪されて曹一族は終わりを迎えました。
孫権も若き頃は英邁だったものの、歳を重ねると自信も失ってくるためか、後継者を育て切れず、結局は兄弟間や家臣たちの間に凝りを残したまま、世を去りました。その結果、呉王朝は内乱に次ぐ内乱で衰退し続け、最後はあっけなく晋王朝に滅ぼされました。
こうして三国志の結末を見ると、「一体あれは何だったのだろうか」と思わざるを得ない無情感に襲われます。しかし、我々は後の世がどんな形になるかは分かりません。だけれども、その時代を全力で生き抜くことくらいはできます。その結果として何かが残ればそれでよし。残らずとも、その人が生きたと思えればそれもまたよし。そんなものだろうと考えております。
1800年以上の時を越えて語り継がれる三国志。人間の変わらない本質がそこにあるからこそ、読み継がれているのかもしれません。