理想に生き、理想に散った前秦王朝皇帝・符堅 ー理想のみで突き進むことの限界ー
皆様、いかがお過ごしでしょうか。大分、間隔が空いてしまいました。僕の方は連日、ジャガイモの植付やブロッコリーの植付がありました。とうもろこしの種まきも始まりますので、テンポよくやっていければと考えております。自分も丸投げし過ぎてしまっていてチェックが甘くなってしまった部分が昨年はありましたので、時間を何とか作ってこまめに確認していければと考えております。
さて、以前から少しメモをしたネタをnoteに書き出してみようと思います。
題材の結論としては、「理想を描くのは悪いことではない。しかし、その過程においては変えていかなければならないことがあり、慮らねばならないこともあるから、一足飛びに解決を試みてはいけない」ということになるでしょう。読書メモではありますけれども、今回は中国の五胡十六国時代(304〜439年)において一時は華北の覇権を握り、中華統一するかもしれなかった前秦王朝の皇帝である苻堅を取り上げます。
前秦という現在のチベット系の氐族の国において一族同士の凄惨な殺し合いの中で台頭してきたのが今回の苻堅です。
中国が五胡十六国と呼ばれた国々によって、中国北部が大混乱の渦に巻き込まれた時代において一時は華北の覇権を握ります。しかし、中華統一に近づきかけたものの、東晋王朝との「淝水の戦い」で大敗し、そのまま建て直すことが出来ず、前秦は滅亡しました。符堅は一族が狂気に満ちていたにも関わらず、そんな中でなぜ皇帝になれたのか。元々は皇帝になるつもりは司馬懿仲達同様になかったでしょう。しかし、一族の人間が殺そうとしてくる以上は「やられる前にやれ」ということになりますから、自分から殺した。紋切型の結論になりますが、そういうことなのかもしれません。
符堅の特色
符堅という人物を見た時に、主なる特色は4つあるように考えられます。
氐族(現在のチベット系民族)を冷遇し、他民族出身者を厚遇した
ブレーン・王猛への異常なまでの厚遇
異なる意見を述べてきた人間をその場で叩き斬っていた
「一視同仁」というスローガンの元、突き進んだ
1つ目の氐族への冷遇と他民族への厚遇は三国時代後の晋王朝の滅亡を見て、司馬一族の失敗然り、他民族王朝の短命さといった失敗を踏まえようとしていたように見受けられます。その反動が人材の大量確保へ向かわせたように考えられます。
その大量採用の過程の中で後の右腕となる王猛を引き入れることに成功します。この王猛は三国時代に力を増していた「琅邪の王氏」と呼ばれた一族の末裔で、更なる源流を辿れば王猛の先祖は大人気漫画「キングダム」にも登場し、春秋戦国時代に実在した名将・王翦と王賁の子孫とも言われております。王翦は趙国の李牧と共に、唐王朝時代に作られた武廟六十四将にも選ばれた名将です。つまり、完璧に近いと言っていいほどの血筋です。
その王猛への異常なまでの厚遇の理由は明らかで、自分の意のままに動いてくれるであろう人間が欲しいリーダーの心理が透けて見えます。これは万古不易なのでしょう。
そして、戦乱続きの世相だからこそ、力がモノを言う時代だったのは言うまでもないでしょう。自分自身も先代の皇帝で狂帝と言っても過言ではなかった苻生に何度も殺されかけた経験もありました。だからこそ、自らの理想を分からせようとしたのではないだろうかと考えられます。ただ、今現在はロシアとウクライナが戦争していることもあり、快刀乱麻的なやり方を通して続けていれば反動が来てしまうことは先の戦争からも分かるように、いつの世も変わらないのでしょう。
符堅には上記で述べたように根幹の思想に「一視同仁」という思想があります。「全ての人間は一つになるべき」という思想です。本来であればこの思想が全世界に行き渡るのであれば理想的なことこの上ありません。しかし、奇しくもこの理想が後に前秦を崩壊へと向かわせることに繋がってしまいます。つまるところ、皆が皆、全員が同じビジョンを共有している訳ではないということです。これはいつの世も集団において課題にもなっている問題でしょう。
なぜ前秦は敗北し、崩壊していったのか?
前秦が崩壊することは結論として分かっていることですが、主な理由は下記4つのように考えられます。
氐族たちの不満を抱えすぎてしまった
大多数の異民族は良い思いが出来るからこそ、符堅に近づいて来ただけでビジョンに共鳴していた訳ではなかった
それぞれの立場や思想の違いを符堅自身の認知の歪みから理解出来ていなかった
過信と盲目
やはり大多数の氐族は冷遇され続けることで不満を溜め込んでしまうことは無理もなかったでしょう。そして、服属させられた側は良い思いが出来るからこそ近付いていったことも含めて、ビジョンも共有していたわけでもなかったはず。加えて、異民族も加われば初期に制定したビジョンも薄まっていってしまいがちになってしまう。当事者である符堅は兵力が膨張したことで過信が生まれてしまい、その結果として「自分の考える一視同仁の理想に反対する者が居るはずがない」という思考に行き着いてしまったのだろうと推測します。
符堅の失敗から学べること
符堅の失敗から学べることは6つあるように推測します。
事は急ぎ過ぎてはいけない
粘り強い説明とコーディネート
立場の違いがあることを理解しておく
メンバーにインタビューなどをして納得しやすいビジョンを構築する
一大で成し遂げようと思い過ぎないこと
「強烈なリーダーシップ」は弊害と後遺症と表裏一体
中国大陸の歴史を見ても、始皇帝や劉徹(武帝)、朱棣(永楽帝)、武則天、曹操孟徳、西太后と強烈なリーダーというのはいつの世も出てきました。戦乱の時代が長かったからというのもあるとは思われるが、現代は違うでしょう。今の時代には今の時代にあったリーダーシップのタイプがあるようにも感じられます。具体的になんだというのは答えられないのですが・・・・。
それを皆が分かりやすい形のビジョンに落とし込んでいったのが田中角栄、徳川家康、漢王朝の劉啓(景帝)、大久保利通といった人物たちだったのではないかと考えられます。それと、現代社会で言えば稲盛和夫氏、本田宗一郎氏、松下幸之助氏といった人物たちが挙げられるように考えられます。もちろん、賛否両論あるでしょうけれども個人的にはそう感じられるので書きました。
個人的に思うこと
最後になりますが、個人的に考えたことを3つ書き出してみます。
符堅はビジョナリーな人物だった
博愛思想に近い考え方を戦乱の世であるにも関わらず持っていた
現実をベースにしたビジョンの制定をし切れなかった
符堅は恐らくは誰もが手を取り合って助け合って暮らせる世の中を作りたかったのではないでしょうか。ただ、この「墨家思想」とも言える博愛思想は自分たちが居る中華圏以外の異民族を「夷狄」と呼び、排除されるべき存在として認識されることはご存知の方も多いはず。大多数の漢民族は当然、西洋社会におけるキリスト教が圧倒的多数なのと同じように、漢民族のベースとなる思想は儒教が圧倒的多数です。つまり、博愛思想と儒教は滅法相性が悪いのです。
そして、符堅は現実をベースにしたビジョンを粘り強く説明し続けることが出来ませんでした。戦乱の世だからこその困難もあったのでしょう。確かにビジョンが大切なのは言うまでもないでしょう。しかし、状況も環境も時が経っていけば変わっていくものです。目的さえブレなければそれを実現するための手段はその時時の状況に応じて、変化させなければならないことを符堅の例は我々に伝えてもくれています。
人種間の融合。そして組織をまとめるためのビジョンの制定と実現。どれも一朝一夕では出来るものではないからこそ、ハッキリとしたものは見つからずとも地道に探し続けるため、行動していくこと。そして、独りよがりにならないようにコミュニケーションを取っていくことの必要性を昨今の戦争を見ていても強く、再認識させられます。