アートに身を置きながら誰よりもロジックをやらなければならない.
相変わらずウイルスの脅威が目に付く世界で、ゆっくりと近づいてきている1つの危機を感じている.
1年半ほど前に、人々の中で価値の転換が起こっていることを妻と話し合ったりしていた.
価値の転換というのも、ロジックからアートへと、人々の関心の対象が変ってきているのだ.
アート的な思考や関心は大事だが、ロジックから離れすぎることは、かなり大きな問題へと繋がることになる.
僕は「ロジック×アート」という考え方を提唱している.
この社会に存在するあらゆるものは、アート(夢や理想といった願望)から始まり、ロジック(願望を実現するための思考や手法)を経て、デザイン(実現)される.
という考え方である.
この「ロジック×アート」の説明を見ればわかる通り、ロジックはアートをデザインするために必要な要素なのである.
価値の転換がどんどん進み、人々の関心が完全にアートに向いてしまうと、ロジックと向き合うことが苦痛そのものになり、デザインの実現が遠のいてしまうことになる.
自分が抱くアートをロジカルに紐解くことが出来なくなれば、長期的なアートの設計が難しくなり、「今が良ければ良い」「未来の事はその時になってから考えればよい」など、本人はその考えを完全に正当化できた気になるだろうが、実際はデザインから離れる原因でしかないという、なんとも滑稽な状況が起こってしまうのである.
国を変えるなら「民意」を変えるしかない.
国が強くなるのも弱くなるのも、結局は国民次第だと捉えることも出来る.
昔の偉い人たちは、国民に対してルールを課したり、洗脳しようとしたりして民意を変えたり統率をはかったりしてきた.
どの時代を見ても、ロジックに身を置く人間の数はアートに身を置く人間の数と比べて劣る.
日本や世界をアート的に捉えることが出来る人間が現れても、それをロジックに落とし込む能力やセンスがある人間は、やはり一握りしか現れない.
アートをアートのまま抱きしめるのは誰にだって心地が良いものだが、それを現実世界に引っ張り出したいと思ったら、ロジックというフィルターを通さなければならない.
アートの質量によって、必要なロジックの質量が決まる.
アートの質量が大きく、現実社会に実現するのが困難であれば、それを可能にするほどのロジックを用意しなければならない.
不治の病を治すためには、それ相応の研究資金や時間、労力がかかるのと同じことである.
つまりデザインしたいと思ったら、どんなアートにもロジックは必要なので、アートとロジックの両方に身を置かなければ、ただの夢見心地な無能無力人間になってしまうのである.
価値の転換は悪い事ではない.
ただ、ほとんど完全にアートに身を置き、ロジックから離れすぎることは、次の時代を作り、支えていく世代である我々にとっては全く持って良くないことであり、新しく生まれてくる次の世代たちにとっても良くない.
このままでは多くの人が活字と触れ合うことをやめ、ロジカルなやり取りの場を持たず、実現方法がわからないまま、ただひたすらに居心地の良さと実現不可能なアートを見つめ続けることになってしまう.
TwitterをやめてInstagramしか使わなくなった人が増えているのも、その兆候の1つである.
アートを愛するなら、それに見合ったロジックを同時に乗りこなさなければならない.
僕は「ロジック×アート」を広め、アートのみならずロジックの重要性も理解できる人を増やし、本当の意味で「夢や願望をかなえられる社会」の実現に貢献していきたいと思っている.
そうでなければ、どこかで苦しんでいる多くの人々を救い、不幸の新たな被害者が生まれることを未然に防ぐことは叶わない.
まずは目の前のことから、自分の国のことから着手していこうと思っている.
だからこそ僕は
「アートに身を置きながら誰よりもロジックをやらなければならない.」
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