「希望を持つ」という贅沢
希望とは何か?
きっと誰しも「希望を持ちたい」と思っている。
そう小さく祈りながら、日々の生活をこなしている。
ではその「希望を持つ」とは何か?
現代においてそれは「失望しないこと」ではないだろうか。
"明るい未来に向かっていざゆかん"的なイデオロギーの時代はとうに終わり我々はゆるやかな諦観と、けだるい厭世観の中で日常にしがみついている。
僕はうっかりすると、そんな毎日の小さな地獄に「失望」してしまう。
そしてそんな「失望」は、水底に沈む落ち葉のようにじわじわと心の奥底に堆積しては、"いつか何とかしなければならない"という蛇のような焦燥感を携えて眠るのだ。
「失望」に溢れた状態は「絶望」か?
ではそんな些細な「失望」に溢れた、愛すべき日常は「絶望」に至るのか?
残念ながら(なのか幸運なことになのかはわからないが)、そうではない。
「絶望」とは、ひどく主観的なものなのだ。
多分、我々が「絶望」しなければ、そこに「絶望」は存在しない。
「失望マシマシ!」とコールしても、絶望的なラーメンは出てこない。
そうなってくると、我々の崇高な精神が最後の砦なのだ。
見渡す限り黒塗りだったりグレーだったり、足の踏み場の無い"ただぼんやりとした不安"に満ち溢れた世界で、絶対に足を踏み外さないことだけが「希望」と言われたりしている。
崇高な精神で完璧な人生をオーダーしなければ
ビッグマックにはかぶりつけない。
絶望に至る病
そもそもいつから「希望」は一縷の光になってしまったのか。
地獄に垂らされた蜘蛛の糸を巻き取ってお釈迦様に問いただしたい。
とはいえ、小さな「失望」だらけの状態で生活するのは実に心臓に悪い。
わかりやすい小さな「失望」は、近ごろでは政治のニュースで豊作だ。
都知事選はどうにも不埒な繁華街のような状態でいかにも東京らしく、終わったはずの今もやいのやいのと(主にネット上の都内は)かしましい。
「失望」するのでぎゅっと目を閉じる。
小山も市長選挙が近く、公開討論会を見ていたら候補者間でディベート能力の乖離が著しく、まず最初のテーマから全く論戦の体を無していなかった。
「失望」するのでぎゅっと目を閉じる。
目を閉じてばかりはいられない
だから僕は目を閉じ耳を塞ぎサウナの中で孤独な存在になろうと考えた。
そういったのはサリンジャーであったか、新橋アスティルを愛する取引先のおじさんであったか。僕はいつもさっさと東京での仕事を切り上げて家に帰りたいのだ。目をつぶってばかりでは人混みは歩けない。
いつから「希望」は贅沢品になってしまったのか?
「希望を持つ」ということを特権階級のみに許された権利にしてはいけない。
そんな僕の人生にも「希望」は無くはない。
それは子供であったり、家族であったり、ありていにいえば、まあ愛すべき日常の「失望じゃない部分」だ。
家族が幸せであることが、いつから当たり前でなくなってしまったのか?
「ウェルビーイング」という言葉が心にずっしりとのしかかる。
【当たり前のことを当たり前に戻さなければならない。】
当たり前にそう言ってくれる政治家が居たら、サクッと一票キメてサウナ入ってビールと洒落こめるのに。相変わらず失望マシマシで血圧が上がりそうだ。
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