船よ、時の川を進め
詩や物語の中の言葉は時間的な射程が長く、時間経過による風化に抗う耐久性があるものだと思っている。
対して、SNSに投稿される言葉は、その時ばかりのもので、今日明日のうちに消えていくような言葉だ。何かを長い期間残そうとして書かれているわけではない。時間的な射程があまりに短い。
詩や物語などの表現作品の言葉は、先の時間にも残そうとして書かれた言葉だと思う。だから、作者が亡くなった後もずっと残っていく可能性がある。表現作品の言葉は、受け取った他者の中に息づき、様々な形で継承されていくものだ。
人間ひとりびとりの命は何とも儚い。ある日突然尽きてしまう。そして、人が世を去ってしまうと、共に過ごした時間も何だか夢だったような気もしてくる。時が経つにつれて、記憶は薄らいで朧げになる。
けれども、個人が生きた時間に思い感じた様々なこと、語っていた言葉、描いていた夢、楽しかった思い出など、この世界に何かしらの形で少しでも残っていてほしい。時間が経っても、その人が生きた軌跡を辿れるように。
文化や芸術は、人が生きて感じた気持ちや心を乗せていく「船」だと思う。それがなければ、大体みんな消えてしまう。個人が生きた時間の先に、何も継承されない。一度も会ったことがない誰かや先の時代の誰かに託すこともできない。
それでは、やっぱり寂しい。全てが消えてしまうなんて、あまりにあんまりだ。私だけでなく、人々みんな寂しいのではないか。個人にまつわる事実の「記録」が残るだけでは不充分で、様々なことを思い感じながら、日々を生きていた「心」が残らなければ、やはり寂しい。
文化や芸術という船は、私にとって重要なものだ。詩や歌、絵画という「船」は時を超えて、私の心に様々な美しいものを運んでくれた。それに対する感謝と返礼を私なりに表していきたい。自分の作品制作、他者の作品制作のサポート、人々が文化や芸術に触れる場所や機会をつくる様々な活動をまだまだ行っていきたい。「船よ、時の川を進め」と願いながら。
補足や追記
※ 詩や物語は、言葉で書かれた楽譜のようなもので、読み手がいてこそ、記録された音楽が演奏される。その点で読み手は奏者である(同時に聴者でもある)。ないしは、詩や物語は、レコードであって、聴き手が心や感覚という繊細な針で、溝の起伏をなぞるからこそ、音楽が再生される。詩や物語は、生きて読む者がいてこそ、その魅力を発揮する。また、時代ごとに新しい読み手を得てこそ、先の時代に継承される。継承されなくなれば、時の彼方に消えてゆく。
※中原中也の詩を、太平洋戦争時、若き兵士たちが自分の手帳やノートに書き写して、戦地に持っていったという話がある。私にとって、この話はとても印象に残っている。戦時中の当時、中也は有名でなく、その詩集は出版数もわずかで手に入らなかった。若き兵士たちは死に直面する戦場でも、美しい詩を読んでいたいと強く願ったのだろう。詩は、自らに立ち帰らせるお守りでもあったろう。
※ 川が流れるように、時間は滔々と流れ、あらゆるものは流れ去り、やがては消えて行く。しかし、詩や歌は時を超える船に乗って、消え去ることなく、様々な時代をゆたりゆたりと進んで行ってほしい。中原中也の詩「湖上」のように。あの詩は、湖の上を船で漕いで行く詩だけれど。
※芸術の目的は「あなたは生きていていいよ」と伝えることだと最近は思っている。私が敬愛する中島らもさんに「いいんだぜ」という歌があったが、君がどんなダメな奴でもクソ野郎でも生きていて、いいんだぜ!と言ってくれる歌だった。「あなたは生きていていいよ」という表現作品に少しでも触れていたなら、自殺もせず、他殺もせず、何とか土壇場で踏み留まれるかもしれないなと私は思っている。ただの理想かもしれないが。
※人はみなそれぞれに光を放っていて、互いに照らし合っているのだと思う。星の光、町の灯りのように。暗い夜道をほわりほわりと照らし合っている。いま生きている人は瞬き光っているだろうし、亡くなった人の光も消えずにどこかに残っていて、優しく光り続けているのだと思う。遥かな過去の光である星の光が、現在の地球に届き、夜道を照らしてくれるように。