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できるだけ固執しない人生を。

僕は意識するわけではなく、できるだけ固執しないほうが得、という考えで生きているタイプの人間です。

お寿司には醤油を、ぎょうざにはタレを、スイカには塩を、それがないとダメ!絶対!とは思わない人間です。

そんなことを言っていると、”食に興味がない”というレッテルを貼られることになるんですが、もはやそこにも固執しません。

おいしいカレーに行こうと言われてもカレーはだいたい美味しいし、おいしいうなぎに行こうと言われてもうなぎはだいたい美味しい。だからどこでもいい。

味が分からないならビールは発泡酒でいいでしょと妻に言われるけど、本当にそれでいい。

でも、実のところ、違いは分かる。

お寿司にもぎょうざにもスイカにも、それがあったほうが美味しいのはわかる。けど、なくてもいい、を自分の中に作っている。

意識的に、許容するレベルを広げている。のです。

音の良さだってAirPodsのほうがいいんだろうけど、はっきり言って音は音。聴こえていればとりあえずいい。きれいな音だ、やっぱこれじゃなきゃ、と言える自分も想像できるけど、いやいや聞けたら1,000円ので十分、と言える自分を作っている。

高校時代、家庭科の授業でパスタかなんだったかを作るとき、みんなはパセリを食べたがらなかった。それって、もし「震災」があったときにも言うの?僕は率先して、みんなにのけものにされた切る前のパセリを茎ごとムシャムシャ食べた思い出がある。

大震災があって、今日食べるものに困っているときに、パンにバターがなかったら食べません、私はミミは食べません、とは絶対に言わない。貧乏性だからか、食に限らずどんなときもそういう目線で考えてきた。飽食やこだわりに、つくづくメスを刺したいとも思っている。


コーヒーもそうで、味に違いがあっても味に固執はしない。
味がどう挑んでこようと、朝飲むコーヒー、事務所で飲むコーヒー、休憩中に事務所の外で飲む缶コーヒー、はたまたキャンプで飲むコーヒー。

空間と時間の違いだけで十分。
味がどうこういうには自分なんかは100年早いと思っている。

固執をしてしまうと、自分の行動や思考に制限ができてしまう。常に来るもの拒まずでひらけた状態を作っておき、受け入れられるようにする。それが強い人間じゃないのか?

新しい店舗ができたとか、どこどこのだれだれが何をしたとかいう情報は本当に必要なときに入ってくるし、SNSをわざわざ時間を割いて見ることもしない。それも流れに固執しない自分のルール。

固執しないという行為は、せっかちで気の短い自分の許容範囲を広げる防御策でもある。

クリエイティブ面で言えば、「できあがったものになるほどーすげー」とだけ言えて、「なにもないところになにも作れない」タイプです。来るもの拒まず性格の代償は、「できあがったものがベスト」と素直に単純に思っちゃうことなんですけど、そこは周りに補ってもらってます。

だからできあがってるものを撮るという自分の職業は、めっちゃ向いてます。

お読みいただきありがとうございました。


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