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紆余曲折して、スレッズ。
スレッズがほんわか浸透しだして、
これはクラブハウスとは違う空気というのは誰もが感じていることでしょう。
あのときは爆発的にみんなが食いついて、え、え、招待してよ、えーできないのかよ、もー、なによなによって、潮流に無理やり乗ろうとする感があった。
かく言う僕も、はれて使えるようになったときは写真業界の有名な人たちのディスカッションを明け方まで聞いたもんだ。
そして間もなく消えていった。惜しまれる声もなかった。
ツイッターが僕にとってちょうど世代で、20半ばの頃にまちづくりに関わっていたこともありSNSネイティブに近く、それにうとい友人よりはずいぶん早く使い始めていた。
やがてツイッターが世界を侵食し終えたときには自分はどこにもおらず、facebook、インスタグラムと回遊しながら、自分の得意分野だったはずのものも、
UI/UXが整う頃には周りの人との優位性はみじんもなくなり、「自分にしかできなかったこと」があれよあれよと「誰でもできること」となっていき、
そうすると「自分にしかできなかったこと」が幻想であり、いかに自分がちっぽけだったかということを知ることになる。
いや、自分が人より優れているとはその頃も思ってはいなかったけど、自分の遊べる場所がなくなってしまった、ここで遊んでいては、ここでこのレベルで遊んでいては、もっと賢くやれればいいけどそれは無理だ、どんどん、どんどん、周りが、本気の人が現れて、自分が下へ下へ
追いやられていく。
SNS疲れというものもあり、自信喪失もあり、写真の仕事の広報目的なアウトプットもする必要がないほどリアルの世界でお仕事にはめぐまれ、
だからおよそ8年間、離れていたんだな。
それでようやく大人になって、
久しぶりにツイッターを見てみようと思ったら案の定アカウントはどこにいったか分からず、新しく作ることになって
作ったら作ったで使い方全然わからず
周りの友人知人のことをフォローしたいのに、見つけられず。いや、探してもない。
なんだか遠い。ソーシャルネットワーク、社会をつなぐと言っておいて、友だちと簡単につながれない。
それはさらに、「ツイッターさえ使えない自分」、「40にもなるとあのとき使えたものが、使えない」、「やればできるんだろうけど、やる気になれない」
という攻撃をかましてきました。
そこで新生の如くあらわれたのが、スレッズ。
自由につかお。
有効活用する気はない、
たぶん、みんなそう。
そこがいい。
自由に使おう。
スレッズがツイッターを食べて、
15年後にはまた誰かがスレッズを食べるんだろうか。
そのときまた、スレッズの使い方について行けない誰かを救う誰かが現れるのだろうか。