丹波移住記1

2013年2月、テクノロジー系のコミュニティTechWaveで広島旅行があり、
そこで当時丹波市市議会議員をしていた横田いたる君と出会った。
TechWave塾長の湯川さんが、私のことを、子育て中の女性がPCで仕事をしたらいいとか地方でのITがいいとか考えてる子だと紹介してくれて、いたる君に出会ってから数分で「とりあえず丹波に遊びに来てください。」と言われた。

旅行が終わってからすぐメッセージが来て、本当に丹波に行くことになった。
市役所は平日しか開いてないので、土日月で来てくれと言われ、新しい年度になってからすぐ丹波市に行くことになった。2013年4月の中旬だった。当時は丹波がどこにあるのかもよくわかっていなかった。

どこの駅に来てくれと言われたのかは忘れてしまったのだけど(たぶん篠山口か柏原か)、当日の朝に地震が起こり、電車が三田までしか動いていなかった。
それを伝えると、いたる君が、白い軽自動車で三田駅まで迎えに来てくれた。
「醤油をこぼしてちょっと匂うけど」と言っていた。
車で丹波市氷上町にある松本家という民家に連れて来られた。そして、そこで後々大変お世話になるNPO法人Tプラス・ファミリーサポートの代表である谷水ゆかりさんを紹介された。次の日はダムの近くでのお花見に連れて行かれ、サンリッジプラスの伊藤さんを紹介された。翌日の月曜日には丹波市役所に連れて行かれた。新産業創造課の課長、男女共同参画課の課長と共に小橋昭彦さんも同席していた。そこでなぜか私は、この見ず知らずの丹波市で、インターネットが普及してるから十分家でも仕事ができること。ワードとかエクセルとかのパソコン教室ではなくホームページ制作とかプログラミングとかもっと仕事に繋がるパソコンスキルを身につける必要性があることを説明した。
話の中で小橋さんが、観光アプリを作る話があり、それをママさんたちに教室として教えながら作ったらどうかというようなことを言い出した。詳しい話は覚えていないが、小橋さんの眼鏡がキランと光っていたことは覚えている。
その帰り道に、とりあえず小橋さんいたる君に、本当にその企画が進むなら秋ぐらいからなら少しくらいなら丹波に住んでもいいのかもと伝えた。横田君が「本当!?やったー!!」みたいな、よし!みたいなノリになっていて、なんか外堀を固められたなーと感じた。(なんでそんな話になったのか、たぶん3日間の間に横田君がちょいちょいジャブ打ってきてたんだと思うw)
仕事は何とかするから、住むとこだけどうにかしてほしいと伝えて帰ってきた。

6月頃に住むとこが見つかったので丹波に来てください。と小橋さんから連絡があり、丹波に来ると、のちのフルハウス(当時は埃だらけの空き家)に連れて来られた。
そこで株式会社ご近所という、移住者たちが丹波の魅力を発信する会社を立ち上げる話を聞いた。そして私もそこで働くのだと言われた。仕事を持っていくつもりで既に何件か案件を受けていたのだが、副業はOKなので、ということでよくわからないままその話が進んだ。
ママさんたちの話はどうなってるのか聞くと、フルハウスでオープンデータの入力をしたらいい。とこれまた訳のわからない話になっていた。(のちにTW塾関連でオープンデータに関する話が丹波でされていて小橋さんのブームになっていたと知るw)
当時はまだ、それまであまり自分の軸で判断するということをしてこなかったので、言われると(疑問を感じながらも)そういうものなのかなと従ってしまうことが多かった。その時はいたるんに大学生と一緒にアテンドされ、当時細見典行さんがされていたツリーハウスや古谷さんの奥丹波ブルーベリー農場、太田さんの丹波太郎山などを満喫して帰った。

その頃、私は東京でフリーランスの常駐SEをしていて、3ヶ月毎に更新の契約を結んでいた。色々任されてもいたし4月〜6月末までの契約でいきなり終了はしづらかったので、次の契約更新のときに以降は継続できない旨を伝え、9月末で常駐エンジニアの仕事は終了としてもらった。9月末には世田谷の賃貸マンションを引き払い、丹波のフルハウスに家財道具を運んでもらうことにした。
2013年9月30日が月曜日だったので、そこは有給扱いにしてもらい、28日29日の土日で引っ越し業者を手配した。1週間かけて運搬するプランだと引っ越し料金が安かったので10月5日に丹波で受け取りの段取りをした。

実は6月に父親の肺癌が発覚していた。
脳にも転移していてステージ4の進行具合だった。
ただ本人に自覚症状はなく、至って元気だった。周りから抗がん剤治療は大変だと聞き、本人がものすごく怖がるので、私と妹で点滴中に見るDVDや気分が落ち着くようにアロマなんかの装備を色々取り揃えた。おかげで1回目の治療は思ったよりもなんともなかったらしく、帰りがけには「お父さん本当にガンかなぁ」などと言いながら腕を振り回し運動し始めた。長泉のがんセンターには末期で治療中の患者さんもたくさんいるのに、そんな様子なので娘たちに叱られるような元気で能天気な父親だった。
ただ2回目、3回目と治療が進むに連れて、やはりふさふさで自慢だった頭髪も抜け始め、治療の後は何を食べても美味しくないと言い出した。それでも、治療後の数日かったるさは感じたようだが、それ以外は相変わらず外にも出ていたし定年後に手伝っていた友人の仕事場にも行っていた。うちの父親は本当に単細胞で子供みたいな人だったので、自分はステージ10段階のうちの4なのだと思っていたみたいだし、治療を重ねて癌の影がどんどん小さくなるので本人はすっかり治るつもりでいた。

9月29日にマンションの引払いと引っ越しの手配を済ませ、一旦御殿場の実家に帰った。翌日の月曜日に父ちゃんは友人の仕事の手伝いに行き、夕方頃に帰ってくると疲れたみたいでそのまま寝てしまった。
翌日もかったるいと起きて来ず、母と交代で背中をさすったりしてあげた。病院に電話しても抗がん剤治療の後はそうなるので様子を見るように言われ、1日中寝ていた。夜になってもかったるそうなので病院に連れて行った。そしてそのままあっけなく逝ってしまった。

私たち家族は心の準備が全くできていなかったから、その頃はみんな放心状態だったように思う。丹波で引っ越しの受け取りをする予定だった10月5日はちょうど葬儀の日となった。事情を話すと引っ越しの荷物は10日ほど預かってもらえることになり、10月の15日頃に丹波で受け取りの手配となった。
葬儀や手続きなど一通り終わって母と何日か家にいる状態だったので、気分転換がてら母と車で関西に来た。神戸に泊まり、丹波のフルハウスで引っ越し荷物を受け取り、京都に寄って家族旅行で父と行った稲荷神社などを巡って帰ったと思う。
当時はこれまで楽しかったこと、ショッピングとか映画見たり音楽聞いたりそういうのが何も楽しく感じなくて、仏教とか心に寄り添う内容のものしか入ってこなくなっていた。何をしても嬉しいも嫌だと思うこともあまりなくなっていて、本当に悲しいことが起こると心が麻痺して何も感じなくなるのだということを体験した。

父の病気が発覚してから、母親には本当に丹波に行くつもりなのか、本当に行くならもし何かあっても後悔しないように。みたいなことを言われたりしたこともあったけど、それまでの父は全然元気だったし、基本的には言われた通り契約の1年くらいは丹波に行くつもりだと伝えていた。
でも実際に父が亡くなってしまうとどうしたらいいのかわからなかった。

そんなとき、10月23日、元町カフェという催しで(株)ご近所の紹介をするから一度丹波に来てくれと言われた。

ひとまず言われるままに丹波に向かい、神戸の元町に行った。
そこで、(株)ご近所で一緒に働く予定の喬木りえちゃん、田代春佳ちゃんに初めて出会った。
りえちゃんは3年前に、春ちゃんは小学生の頃に父親を亡くしていた。二人とも変に気を使い過ぎずにいてくれて心が救われる感じがした。
まだ丹波に来ていいものか迷っていると言った私に、父親のことをずっと偲ばないと申し訳なく思う必要はないんだと言ってくれた人がいた。そういう中で、ひとまず丹波に来てみようと思った。

四十九日が終わって、丹波に住むために来たのが2013年11月12日。
最初は(株)ご近所の契約の1年くらいのつもりで丹波に来る予定だったのが、最初の頃は父親がいない地元に帰るのがどうにも辛く感じてしまう時期があった。そんなこともあり、おかげでかれこれ10年近く、丹波で暮らしているし、丹波で色々な活動をしているうちに法人もつくることになった。

今ではすっかり感情も豊かになり元気に暮らしていて、静岡の実家に帰ると楽しくて仕方ないくらいなのだが、父親のことがなければこんなに丹波に根を張ることはなかったと思う。シェアハウスとか近所付き合いとか仕事として形作られていない中で休みなく働くことも、感情が麻痺していたからこそできた部分もたくさんあった。丹波の人たちの言葉とかお世話になったり色々なことをたくさん吸収させてもらえたのもこの時期でないと自分はこんなに素直に受け入れられなかったんじゃないかと思う。

こうして私は丹波に移住することになったのだけれども、長くなってきたので丹波で暮らし始めてからの続きはまたいつか書こうと思う。

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