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【今でしょ!note#136】昭和なものと本質のものを見極める

いかがお過ごしでしょうか。林でございます。

令和の時代となり、その反対の言葉として「昭和」という言葉が一緒によく使われるようになった印象があります。
西武ゆうえんちのような、昭和レトロな世界観をアピールポイントとした施設が出てくるなど、「昭和=ポジティブ、独特なもの」というポジティブな文脈で使われることもあれば、昭和的な発想・やり方というように「昭和=古いもの、時代遅れなもの」というようにネガティブな文脈で使われることもあります。

今の時代に合わない、人が本来やる必要のない「昭和的で古い」仕事のプロセスは、改善して令和のやり方にアップデートしていく方が良いと考えるものの、今も昔も変わらない本質的なものも含めて、一括りに「昭和的」というラベルを貼ってしまうのも何か違うのではないか?と感じる瞬間が日常の中にままあります。

今日は、「昭和なもの」と「本質的なもの」は何が違うのか、を整理して、本来「本質的で大切なこと」まで「昭和だから」という理由で、軽視してしまわないようにしたいという話をします。

「昭和なもの」とは?

はじめに、「昭和なもの」とはどういうものでしょうか。
「昭和」という言葉がどういう文脈で使われることが多いか思い浮かべてみると、「仕事のやり方が昭和」とか「考え方が昭和的」のように使われますね。

具体的には、社内の電子決裁の仕組みなど、会社の中の判断について誰かが起案して、必要な人が中身を回覧して決裁者が承認するプロセスにおいて、未だに起案者が決裁文書を印刷して、回覧者、決裁者が中身をチェックしてサインまたは印鑑を押していく、というようなアナログなやり方。
途中で起案文書に変更が入ったら、再度それを修正して印刷して回覧のやり直し、みたいな仕事のプロセスは「昭和なもの」だと考えます。

私が入社した時から、電子決裁が当たり前だったのですが、以前地域の学校関係者の方と話をしている時に、「学校内の決裁においては、今だに電子決裁の仕組みが導入されておらず、アナログに回覧している」と聞いてびっくりしました。

他にも、議会における質疑応答の準備などもかなりアナログなプロセスが残っていると聞きます。
議会に向けて、想定質問集を夜な夜な作って紙印刷して手元に持っておき、何か修正があれば、再度膨大な資料の一部を修正して、印刷をやり直すといったことが、まだまだ当たり前に行われているとか。

これらの例では、本来「人間が頭や時間を使わなくて良いもの」に対して過剰に時間を使ってしまい、何かを創造するとか、工夫してやり方を改善する、みたいな本来価値を生み出す仕事に時間が割けていないという共通項があると考えます。

それにしても、「ペーパレス」や「非同期コミュニケーション」が令和の現代、私の生活の中では割と当たり前の感覚になっていますが、これも業界や地域によって、数年単位でラグがあるように感じますね。

「ペーパレス」に関しては、私が入社したての頃は、週次のプロジェクト内の進捗会議の前には、各グループが進捗資料を更新完了しているか聞き回って確認して、A3で1セット合計20枚ほどになる資料を20人分印刷する、みたいなことを普通にやっていました。
もちろん、途中でプリンタのインク切れや紙切れがあれば交換しますし、何だかんだで毎週2時間以上は、「進捗資料の印刷」という「作業」に取られていました。

「非同期コミュニケーション」においては、対面会議がオンラインに切り替わったり、テレワークやチャットツールの浸透があります。
私が入社した2010年代初期は、テレワークを導入している会社は本当に一握りで、毎日満員電車に揺られて何があっても職場に行くこと、が当たり前でした。
この辺りも、主にコロナ禍がもたらした正の側面ですが、テレワークやそれを支えるツールが充実してきて、家事や育児をしながらでも仕事がやりやすくなった面はポジティブな社会変化だと捉えています。

ネガティブな文脈で使われる「昭和的なもの」とは、技術のアップデートにより、より効率的・効果的なやり方があるにも関わらず、それを選ばずに「本来人間がしなくてよいこと」に多くの時間を割いているもの、であると考えます。

「本質的なもの」とは?

一方で、本質的なものとは何でしょうか。
これは「今も昔も変わらない普遍的なもの」であると考えます。

もう少し踏み込むと「人が成長するときに必要なもの」や「人間関係における信頼が生まれるプロセス」というように、より人間が中心にあるものだと捉えています。

例えば、「人が成長するときに必要なもの」は、「時間」と「真剣に向き合い続けること」です。
何かの領域で他より優れた専門性を磨くには、圧倒的な時間がかかります。
よく言われる「1万時間の法則」も、ある分野で一流と呼ばれるレベルに達するには、1万時間が必要という主張です。

そして、その過程においては、自分で考えて行動して壁にぶつかりながら、一つ一つ泥臭く諦めずに乗り越え続けるほかありません。
何でもいいから「真剣に」物事に向き合い続けた結果、いつの間にか他を圧倒する自分の専門性に変わるのです。

でも、ここで「誤った昭和の解釈」が入ってしまうと、「時間をかけずに、もっと楽をして成長したい」という短絡的な発想に変わります
「1週間でTOEICの点数を100点上げる!」みたいな本は最たるもので、小手先のテクニックを身につけて仮に1週間で100点上がったとしても、So what?になるわけです。
英語の勉強は、単語を一つ一つ覚えながら、自分で書いたり読んだり話したりして、膨大なインプットとアウトプットを地道に続けるしかないのに、「1週間で100点上げる」の本を何冊手に取ったところで、自分の人生の幅を広げる語学力を習得することは永遠にありません。

「人間関係における信頼の構築」も同じです。
仕事以外の雑談が当たり前にある人間関係と、業務の話しかしない人間関係のいずれのほうが、お互い困った時に助け合える関係になれるか、は明らかですね。

一緒に食事をしながらあれこれ話したことがある関係性と、食事すらしたことがない関係性の比較をしても同じです。

そこを短絡的に「ウェットな人間関係は昭和的」という考え方のもと、「あえて雑談なんかしなくても仕事は回せるから」とか「食事をすることはマストでないから」と考えて、積極的にポジティブな人間関係を構築するための行動をしないのは、勿体無いです。

ウェットかドライかは論点ではなく、自分がやりたいことを達成するという目的に対して、どういうアプローチで人間関係を築いておけると、お互いにとってポジティブな関係性を築き双方の目的達成に近付けるか、を考えるのです。

リモートで、遠方に住んでいる人とのコミュニケーションのハードルが下がったため、「何でわざわざ出張する必要があるの?」となるシーンも増えました。

日々の状況把握などの局面ではリモートツールを十分活用すればいいですが、信頼関係を構築したいフェーズや、難局や勝負所では、「リモートでテキストでないと連絡が取れない人」と「目の前にいて、困ったことを直接伝えられる人」のいずれを信頼できるかは明らかです。

昭和だから、と本質的なものまで切り捨てない

頑張らないこと=令和、みたいな風潮のもと、真剣にやるのはカッコ悪い、ウェットな人間関係は古い、リモートで資料投影して議論ができれば仕事が進む、みたいに考えてしまいがちです。
でも大事なのは、人間が頑張る必要がないことは技術で置き換えて楽をしつつ、人間が中心にあることは、泥臭く地道にやるしかないということです。

ここをしっかり見極めて、取捨選択していくことこそが、真に「令和的な」考え方ではないでしょうか。

それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
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林 裕也@30代民間企業の育児マネージャー
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