#287 地域経済の発展に貢献する金融とは?福岡の発展に大きく寄与した四島一二三
いかがお過ごしでしょうか。林でございます。
昨日から仕事の出張で福岡に来ており、日曜まで博多にいる予定です。
福岡は今回で4回目?ですが、前回来たのは学生の頃なので、約15年前になります。
学生の頃に来た時は、単純に観光目的であったり、神戸から西日本原付の旅をしていたので、ラーメンだけ食べて通過したり、北九州の大学で講演依頼があって、講師として来て1泊2日とかで帰った感じなので、じっくり福岡の歴史がどうなっているとか、そんな視点で全く福岡を見れていませんでした。
今回、30代後半になり折角来たのであれば、もう少し立体的に福岡のまちを見れるようになりたいなりたい!と思い、過去に読んだ木下斉さんの本の中で紹介されていた四島一二三氏のことを思い出しました。
本当は、四島一二三氏の記念館があれば、仕事の合間に足を運んでみたかったのですが、1996年に記念館が開館したものの、2003年に閉館していました。
しかし、代わりにオンライン型の「四島一二三記念館」が存在し、これを一通り見ただけでも、地域金融機関の在り方など、改めて考えさせられる部分がありましたので、こちらを元に、学びになったことを振り返ってみたいと思います。
日本全体で人口減少が叫ばれる中、どうして福岡が人口が増え続けているレアなまちになっているのか?そういうまちが生まれるには、国や行政の斡旋ではなく、優れた人物が人生を賭けて本気で向き合った結果であること等を理解できます。
四島一二三氏とは?
四島さんは、明治時代の1881年に福岡で生まれ、昭和の高度経済成長後となる1976年まで96年間生きた福岡の実業家兼金融屋です。
戦前の1924年に「福岡無尽株式会社」を設立に携わり、44歳で専務取締役となり、56歳で取締役社長に就任しました。
福岡無尽株式会社は、戦後1951年に「相互銀行法」の施行に伴い「福岡相互銀行」に転換し、1989年に普通銀行に転換して「福岡シティ銀行」、2004年に西日本銀行と合併して、現在の「西日本シティ銀行」に繋がっています。
そんな四島さんですが、なんと小学生の時から渡米の決意を秘めており、最初は反対していた両親を説き伏せ、明治30年の17歳の時に渡米します。
アメリカ西海岸のポートランドに到着した四島青年は、言葉を覚えるために簡易ホテルに住み込み、皿洗い、ジャガイモの皮剥きなどから始めました。
その後も、現在のカリフォルニア州のサクラメントで野菜作り、ホップス農場、ぶどう園などを転々とし、ロサンゼルスでレモン農園で奮闘し、忙しい時には寝るのも靴を履いたままだったとか。
そのうちに、22歳で450人の農場の労務責任者を任せてもらえるようになり、29歳で四島商会を設立し社長に就任します。農園での人材派遣業もやり、アメリカの地で大成功を収めました。
30代で財産を成したわけですが、第一次世界大戦後の戦後不況もあり、1918年に38歳で帰国し、しばらく隠居生活に入ります。そんな時、福岡無尽株式会社の設立に加わって一肌脱いで欲しいという周囲の推薦を受け、43歳の時にこれに加わり、44歳で設立を果たしました。
「興産一万人」に徹した事業家 兼 金融屋
アメリカでの事業は一応成功しましたが、無尽の仕事も「大切な他人のお金を預かる仕事」ということで誠心誠意頑張ろうということで決心されたそうです。
当時、銀行は零細事業者や個人事業主にはお金を貸さず、組合や無尽がその役割を担っていました。「無尽」とは、お互いの掛け金で金銭を融通することを目的とした組織です。
「金融」とは、「お金を持っているけどすぐに必要がない人から、すぐにお金が必要だけどお金を持っていない人にお金を融通する」のが役割ということで、四島さんは「興産一万」を理念に掲げます。
すなわち、資産を持っていない人から一万人の中産階級(資産2,000万円以上)の人を作る手助けがしたいという考え方で「福岡無尽株式会社」を設立しました。
四島さんは、単なる「金貸し」ではなく、自身がアメリカで事業を成功させたノウハウを活かし、融資先の事業が上手くいくために必要なものを多角的に見極め、全面的な支援をされました。
上記サイトの「回想」には、「興産一万」の名の通り、四島さんから支援を受けた数多くの実業家の回想録が寄せられています。
例えば、石井鉄工所の石井宗太郎氏の振り返りによると、四島さんは、保証人も担保もない石井さんに融資を決めたばかりでなく、広大な工業用地を探して紹介しました。機械を買うときも、良いメーカーのものであればOKだが、妥協して、どうかと思うものはやめとけとアドバイスをしたりと、設備投資に関するアドバイザーの役割も担っていたようです。
ロイヤルホスト、Sizzler、リッチモンドホテル、天丼てんやなどを手がけるロイヤル株式会社の江頭匡一氏も、四島さんとゆかりがある福岡の実業家の一人で、四島さんに事業案の話をして多額の融資を決め、1953年にロイヤル中洲本店の開業に至っています。
ロイヤルグループの沿革を追っているだけでも面白いのですが、ロイヤルは朝鮮戦争勃発時に福岡空港でJAL国内線が営業開始したタイミングで機内食事業を始めたのがきっかけで開業しています。
地域金融機関のあるべき姿
四島さんの記念館サイトを見ていると、本来の地域金融機関のルーツは「興産一万」の考え方にあるのを実感します。
地域の金融機関が融資するだけでなく、設備投資のスジの良さや営業面での支援も含めて支援し、融資先の事業が大きくなることで、より大きな融資を取り付け事業を大きくする。地域金融機関の本質的な存在意義はここにあるなと。
先日ご紹介した倉敷の大原孫三郎氏もそうですが、地元で財産を成した人が次世代の若き事業家や将来有望な人に投資して、人材育成し、一社だけでなくエリア全体での産業発展に貢献する人がいるかいないかで、現在に通じるまちの発展に影響しています。いかにこういう人物を地域内で掘り出して伸ばしていけるか、これに尽きますね。
四島さんは、30代後半までにアメリカで事業の成功を収めただけでなく、1950年に70歳になってから「お客さま行脚」を始めています。
これは、各企業を社長自らが運転手と二人で訪問し、銀行に対しての希望を聞いたり、経営者の話を聞きながら様々な業界のトレンドや各地の風情に触れて、勉強する取り組みです。
1960年代の最盛期には、1年で平均1300軒以上の顧客のところを周ったとか。
ただし、このお客様訪問は、必ず「初めて」でないとダメとの注文が付いたとのことで、訪問を受け入れる側の各支店の支店長は、「社長が訪問するに相応しい顧客を常に開拓しなければならない」とかなりのプレッシャーで、各支店では常に優良顧客の開拓に明け暮れていたようです。
このように、「事業家→金融機関→後進の事業家支援」という動きができる人がいることで、地域産業は盛り上がるということを改めて実感しました。
「興産一万」は、資産がない人を育てる考え方なので、返済能力の有無や、事業計画をもとにした融資判断しかやってこなかった人にとってはかなりの難題です。本来、金融機関に新卒で入っても事業を自分でやっているわけではないですから、このあたりが現状の多くの地域金融機関とギャップがあるところなのかなと。
幾つになっても自ら色んなところに足を運び、多くの人の話を聞きながらトレンドを掴んでいくという地道な努力あってこそ、事業を見る目が養われ続けているはずですから、私も選り好みせず、色々興味のままに勉強していきたいと思います。
続編もお楽しみください!