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【今でしょ!note#15】 1971-75年 円レート上昇と石油危機の大変動 (経済白書から現代史を学ぶ その6)

おはようございます。林でございます。

「経済白書で読む戦後日本経済の歩み」シリーズその6です。

1955年ごろから開始した高度経済成長では、その後1973年までの20年弱の間、途中「昭和40年不況」などもあり、必ずしも常に上昇気流に乗り続けていたという訳ではありませんが、年平均10%を上回る成長を遂げ、1968年にはGNP世界第二位の国になりました。

この経済成長の背景には、企業の旺盛な設備投資や、銀行が企業に融資するための元手資金不足を補うべく、個人からの預金集めに翻弄した等、当時を生きる人たちの苦労ももちろんありますが、日本の成長を後押しする国際情勢だったことが大きいです。

特に、地政学上の理由から、日本を西側諸国の重要拠点と見ていたアメリカの後ろ盾があります。1968年にいよいよ日本が世界二位まで達したところで、当時の経済成長率が3.4%程度だったアメリカは自分たちが抜かれる可能性があると危機感を覚え、日本を弟分として泳がせるフェーズを終わらせる判断をします。

1965年から始まった米中代理戦争であるベトナム戦争によるアメリカ国内の財政負担や、貿易赤字などで経済低迷時期に陥ったアメリカの方針転換に影響を受ける形で、新たな局面に入った1970年以降の日本について順に見ていきます。


円レートの上昇

70年代前半、60年代までの日本を支えていた世界経済と貿易の順調な拡大、1ドル360円に固定された為替レート、安価で無制限な資源・エネルギーという3つの前提条件が相次いで崩れます。

日本は、活発な設備投資と輸出の好調により貿易黒字を拡大した一方で、欧米の主要国経済は、景気停滞と物価上昇が併存するスタグフレーションに悩まされるようになりました。
71年には、貿易赤字が続くアメリカがドルの固定相場制に耐えられなくなり、突然レート固定制を放棄したため、円の一時的な変動相場制への転換と、対ドル360円のレートが308円に設定され、16.88%の円切り上げが余儀なくされます。いわゆるニクソン・ショックです。

また、金融緩和の影響力が過去のそれとは変わってきました。それまでは、景気後退局面で金融緩和されると、投資は水を得た魚のように回復しました。しかし、既に設備過剰感があり、企業も戦後長く続いた資金不足から解放され自己金融力が強化されていましたから、投資が金融機関の貸出金利に非感応的になってきたのです。
結果、金融緩和効果が土地投資・金融資産投資に向かい、市場金利低下や地価株価の上昇をもたらしました。

国内インフレを煽った「日本列島改造論」

72年度の経済白書では、円切り上げが内外における競争を加速させ、低生産性部門の転換を促し、経済構造の近代化と福祉充実のきっかけに役立つとし、むしろ円高を利用して構造改革を促進すべきと主張しています。

73年度財政の当初予算は、伸び率25%という空前の大型予算です。一因は、年金・福祉関係の歳出拡大でした。73年は福祉元年と呼ばれ、年金・健康保険給付の画期的拡充が行われます。

財政面でも心理面でも、インフレを特にあおる結果になったのは、72年7月に就任した田中角栄首相の「日本列島改造論」です。
年率10%の経済成長とともに、工業の大規模再配置や地方の中核都市作りで「過密」と「過疎」の同時解決を目指したこの構想は、世間のインフレ心理に見事に点火し、全国的な土地投機、地価高騰と一般物価上昇の加速をもたらします。

世界的なインフレとオイルショック

こうした経済拡大は、多かれ少なかれ世界で同時的に起こっており、農作物不作もあり世界的なインフレ・物資不足現象が進行します。
73年秋の第四次中東戦争が引き金となり発生した第一次石油危機では、国際原油価格はわずか数ヶ月で1バーレル3ドルから12ドルと、4倍増になりました。

安価で豊富な石油に依存する日本経済は、雷に打たれたような衝撃を受けます。
卸売物価は30%以上、消費者物価は年率20%以上の急騰となり、74年には高度成長期始まって以来、はじめてのマイナス成長となりました。

石油価格の急騰は、消費国にとっては産油国から税金をかけられたようなものです。そして、インフレによる所得の目減りを取り返すべく賃金上昇を目指し、結果的にさらに物価が上がるという悪循環に陥ります。

世界的な景気後退からの復活

第一次石油危機による世界的な不況からの回復に時間を要したのは、デフレにより世界貿易が縮小していたことによります。
74年秋以降、主要工業国の景気後退が同時に深刻化し、日本の輸出も減退します。世界景気の同時後退は、西ドイツのような輸出依存度の高い国の景気回復を遅らせますが、アメリカのような内需依存度の高い国ではあまりマイナスに働きません。そのため、アメリカが景気回復の先端を切り、世界経済の回復を牽引するのがパターンとなりつつありました。

日本政府は、インフレ抑制を最重点に強力な引き締め策を取り、景気後退を受容し、物価安定を目指します。結果的に、70年代後半になり、多くの欧米諸国に比べて早期に経済を回復させました。

石油価格高騰の打撃を受けた産業界も、手探りで省石油・省エネルギーへの道を模索し、産業構造変革の歩みを進めます。この時期に向き合い始めた知識・技術集約型の産業構造と、省エネ技術・省エネ商品の開発は、後の79年第二次石油危機に際し、日本産業の国際競争力を際立って強いものとします。

76年の経済白書では、インフレによる企業財務の歪みを詳細に分析し、是正の必要を説いています。特に「高度成長型企業体質を改善すること」、「金融機関の貸出先判定では、より収益性を重視すること」が強調されています。
これらの構造改革が不徹底なまま終わったことが、80年代のバブル発生とその崩壊、90年代以降の日本経済の長期停滞の大きな要因となっていくのです。

次回は、70年代後半の第二次オイルショックの実態、更に変動する円レート、深刻化する貿易摩擦などを取り上げます。

それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
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林 裕也@30代民間企業の育児マネージャー
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