手際の悪さとの付き合い方
自分は、手際が悪いと思うことがときどきある。
手を使う、料理とか、裁縫とか、細かいやつで、特にそう感じることが多い。
そもそも、大学一年生の頃に、僕は居酒屋のキッチンバイトをしていたけれど、金曜や土曜のお客さんが入るピークの時間には、一度も焼き鳥のオーダーを捌けたことがなかった。
焼いている串の焼き加減を見つつ、次々くるオーダーを見て、どれを焼けばいいのかを判断してと、やることが多く、僕にはそれができなかった。いつもヘルプとして、社員の人が手伝ってくれた。
それに、最近は家で恋人と一緒に料理をすることがあるのだけど、そういう時にも手際の差を感じる。
おいなりさんを作った時は、僕の1.5倍の速さで恋人はご飯をおあげに包むし、ちょっと破けやすいおあげでも難なく包む。
包み方に関しては、恋人は適量で包む。一方、僕は1つに沢山詰め込もうと、ギュッギュッと押し込むから、一つ一つがでかくなる。
結果、並べてみれば、どちらが作ったかは一目瞭然だった。恋人のおいなりさんは長方形なのに、僕のはほぼ正方形なのだ。
他にも、野菜を切る速さも肉を切る速さも全然違う。自分も一生懸命やってはいるのだけど、速さの差が歴然として出るのである。
野菜に関しては、均一性にも差がある。僕の場合は一つひとつが、個性的な形をしているのだ。多様性のある社会が、僕が切った野菜たちの中でも出来上がっているのである。
だけれど、一つひとつが個性的であることは、こういう時には求められない。火が通りにくかったり、反対に通りやすくなったりするから、均一性がある方が好ましいからである。行き場のない個性をつくることに、少し申し訳なさを感じるときもある。
そして、以前、鶏肉の皮をはぐのに包丁を使って指を切るへまをしてからは、恋人はあまり危険な仕事を僕に任せたがらなくなった。
またそうやって怪我することを心配しているのだろう。それくらいに僕は手際が悪い。野菜を切る時だって、ちらっとこちらの手元を見ているのも知っている。
指を切らないか見張られているのだ。さながら子どもである。もちろん僕だって気をつけている。ただ、危険な切り方とか言われることも多い。
そう考えると、そもそも自分の切り方にも問題があるのかもしれないとも思う。そこは直していきたい。
でも、こうした日々や、料理での手際悪さはそこまで気にならない。家で作る分には、遅かろうがそんなに迷惑がかからないからだ。
それでも、色んな場面で登場するこの手際の悪さ。嫌いに思うことだって多い。どうしてこんなに出来ないんだと、絶望することもある。
なのに、直すよりも、いい感じに付き合っていければなと思ってしまうのは、少しはこいつが悪くないと思っているからなのかもしれない。
嫌だなと思うことも多いけれど、手際が悪いゆえに助けてもらうことも多い。居酒屋のキッチンだってそうだったし。それによって、周りの人の優しさを感じることもあるのだ。
そして、出来上がったもののいびつさは、たまに笑いを生んでくれる。たまに綺麗にできた時には、すごい嬉しくなる。これらは、出来ないからこそ生まれる感動だ。
だから、直すのではなく、この手際の悪さと上手く折り合いをつけていきたいと思うのは、やっぱり仕方ないことなのかもしれない。