人類の起源をたどると見えるもの
久々に友達との会食を楽しんだ後、この記事を書いている。ともに教育者としての志と教育法の違いを再確認できた今日、僕のテーマでもある起源について考えた。
人間はなぜ生まれたのか、生物とはどのように生まれたのか、この宇宙はどうして生まれたのか。始まりが分かれば、終わりも見えてくる。科学的な考察は人間の推論で、一見確からしく見えるが、絶対的ではない。だから研究は続けられている。
また、世界のほとんどが科学を信仰する。キリスト教徒もイスラム教徒も仏教徒も地球を丸いと信じ、太陽の周りをまわる惑星と認知する。しかし、ほんとにそうだろうか。
我々が今集団で認知しているもののほとんどが確かな証拠がある程度あり、それらに基づいて定義づけをしている。しかし、これらは別の何者かによって、施行を操られているのかもしれないし、今僕の書いている文章も僕の施行によるものではないのかもしれない。
とにかく起源の追及は終わることのない探求である。そして人間の思考は死の恐怖から脱するために宗教を生み出し、世界を正しく見ようと科学を生み出した。そのように考えられている。これらは確たる証拠のないことで、主観的な主張でしかない。
僕は、人間が知ることのできる事実は、人それぞれ違っていて、それは何を事実としてみるのか、つまり何を信じて考えるのか、で決まることだと思う。それは神の存在を科学が解明しようとしても、不可能であるということだし、コーランや新約聖書が空を飛ぶことができないように、全く考え方が違っているからだ。
だから、僕の研究に価値を見出していると考えている。哲学や宗教学、科学、人類学その他諸々を網羅することで、人類の思考の起源にたどり着くことが、仏教のいわゆる「悟り」を開くことになると考えている。
さて、今日は文化人類学の基礎知識を取り入れることにしよう。