本当の願いに気づいた私の話
こんにちは。夕鶴です。
前回の「愛されるって何だろうと思った私の話」に続いて、私の気づきをまとめたいと思います。
前回のnoteでも書いたように、私は「愛されたい」と強く願っていました。
彼から溺愛されたい、溺愛される結婚がしたいと、それが私の人生の願いであると本気で思っていました。
愛されるって何だろうと思った私の話|夕鶴 #note https://note.com/yuuzuru/n/n1b4e8489d12e
だからいろいろ学んだということは前回も書きましたが、それによって私の願いは叶うのだと心の底から信じていました。
なんて簡単なんだろう、私は愛されていてこれがずっと続いていく、なんて幸せなんだろう。その時の私は本気で満たされていると思っていました。
しかし、それは嘘でした。
彼から別れを切り出された時、「私はあんなに頑張ったのに」って思いました。
おかしいですね。簡単だったはずなのに、「ご自愛」をしてきたはずなのに、「頑張らなくても愛されてる」と思ってきたはずなのに、本当の本当は私は「とっても頑張っていた」のでした。
自分がとても頑張っていたことに気づいた私は、本当はどうなりたいのか考えました。
「愛されたい」「愛されている安心感がほしい」
ずっとこれが私の願いだと信じていました。
しかし、これは他者の評価に依存する不確かなものです。このような不確かなものを願い続ける人生は、私の心をとても疲れさせるものでした。
私は、他者からの愛情を求めて生きることに心底疲れました。「ご自愛」していても、それは彼から愛されるため。矛盾してますね。不確かなもののために自分を満たすことの虚しさ。そもそも「ご自愛」なんてしなくていいはずなのです。
したいことをして満たされる。丁寧に暮らして満たされる。他者を愛してみたされる。
その先に「だから願いが叶う」とか「だから彼から愛される」とか、くっつけなくていいのです。
そして、本当は私は「自分らしく生きたい」のだと、自分の本当の願いに気づきました。
自分らしく生きて、その中で出会った人、側にいる人を私なりに大切にする、愛する。
一度しかない人生を、不確かなものを求め続ける辛いものにしないために、私は私らしく世界を愛して生きていくことを決めました。
今でも、何度もぶれます。
私らしく生きたい、でも、それでずっと独りだとしたら?私はそれでも私らしく生きていこうと思える?と何度も何度も不安感が湧いてきます。
あーーー愛されたい!と涙を流すこともあります。
それでも。
私ができることは「愛されることではなく愛することだけ」ということを思い出します。願いを叶えなくても、誰からも愛されなくても生きていていいのだということを思い出します。
そして、私にできることをしよう、と心を奮い立たせます。どんなに不安でも、どんなに泣いても、これが私の生きたい人生だと強く信じて生きていく、そんな人になりたいと思うのです。
また長くなりました。
今回のnoteを書いていて、「愛する」とは何だろうという疑問が私の中に湧いてきました。
次回は「愛することについて考えた私の話」を書きたいと思います。
読んでくださってありがとうございます。
夕鶴