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noteは自分のための一里塚〜*落書き

 こんにちは。お立ち寄りいただきありがとうございます。
 この歳になって気づいたことがある。振り返れば「さんかく」人生だった。「さんかく」とは「三かく」で、私の場合①義理欠く②恥かく③品欠くーの三つ。
 漱石は、金を貯める「三かく術」に「義理欠く、人情欠く、恥をかくの三つあり」(吾輩は猫である)と述べた。私の生き方も似たようなものだ。
 まあ通信簿をつければ、厚かましく、独りよがりで、ジコチューで、三段階評価すれば上中下の下、人間としては下品、貧格の部類に入る。
 これは卑下でも謙遜でもない。一刀両断、自分が自分に下す客観的評価。つまり我を知るという気付き。みっともないが、恥をさらせばそうなる。
 世間の片隅で、本性を隠して善人面を取り繕ってきた自分は偽善者?やだねえ、そんな男。ああ、ダメだこりゃ。
 それを気付かせてくれたのが、娘に教わって始めたnoteだった。

 この春以来、病気療養以外に生きる目標を失っていた私は、娘にこう言われた。
 「じゃあnoteでも始めてみれば」
 「note?なんだい、それは?」
 「ブログみたいなものよ」
 「そんな難しいこと出来るかよ」
 「難しくないわよ。思ったことを書けばいいのよ」
 「だって、おめえ、それって自分のことをさらけ出すことだろ」
 「そんなことないわよ。年寄りはこう考えておりますとか、世間はこうだ、私はこう思うだとか、何でもいいのよ」
 「じゃあ、今の政治はどうだとか、ああでもねえ、こうでもねえとか、それでもいいのかい?」
 「お父さんの床屋談義など誰も聞かないわよ。第一、お父さんの言い方って過激で偏向してるもん。極端な政治向きの話って少ないわね。もっとホンノリした話題のほうが良いと思うんだけど。ともかく、一度やってみなさいよ」
 「せっかくのお勧めだ。じゃあやってみっか」

 そんなやり取りがあって始めたnote。
 約一ヵ月経つ。目を通していると、私よりうんと若い人が、ジャンルを問わず色んなことを書いている。挫折もあるが、夢もある。豊かな知性もあれば、素敵な創造もある。
 「スキ」や「フォロー」や「コメント」の数が多いのもあれば、そういうカウントが少なくても素晴らしい才能をうかがわせるのもある。私は勿論問題外。今更そういう数字に一喜一憂する歳でもねえしさ。
 noteという大海原。おいらなど、息づかいどころか、早くも息切れして「さて、次は何を書けばいいのか?」と連日戸惑っている。
 これまでのダラダラ人生の祟りで、頭の中はスカスカの空っぽだし、これはというテーマもなけりゃ、一事一芸に秀でたり、専門的な知識もあるわけじゃない。
 色んな方のnoteを読ませてもらうのが、遅まきながら私にとっての「学び」というやつだ。
 つまりnoteが気付かせてくれたのは己の非力、無力というやつ。そして「こんなこっちゃいけねえ」とnoteが発奮させてくれた。
 誰のためでもない。おいらにとってnoteは、残された人生の一里塚、自分のためにあるのさ。
 さて、あすは晴れるのか?曇るのか?。

   *フォト ▽「もう降りようか」「やだ、もっと遊びた〜い」

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  *俳句巡礼 梨園の番犬梨を丸齧り(平畑 静塔)

 なしえんのばんけんなしをまるかじり。
 季語は「梨」で秋。「りえん」と読めば歌舞伎界。観光梨園のワンコにもぎたての梨を投げ与えたら、パクリとまるかじり。梨が好きなワンコもいるんだ。
 【平畑静塔=ひらはた・せいとう】和歌山県生まれ、京都帝国大学医学部卒、精神科医、鈴鹿野風呂、山口誓子に師事、「京鹿子」「ホトトギス」「馬酔木」、「天狼」創刊同人、1905年(明治38年)~1997年(平成9年)
 【俳句手控え】俳句は案外難しい言葉が多い。時には辞書を引かないとわからない言葉もある。五七五の制約がある詩だから難しい言葉も使う?
 だが、基本は「誰にでもわかりやすい」ことだろう。「雨風の濡れては乾き猫ぢやらし」(三橋鷹女)という句は、気負いもなく草花を詠んでいる。

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