おいらの駄文は自分自身という読者のために書き続ける?!〜*落書きnote
こんにちは。お立ち寄りいただきありがとうございます。
娘に教わりnoteを始めて二ヵ月半。
そりゃあ誰だって、投稿する以上はたくさんの人に読んでもらいたい。おいらも初めのうちはそうだった。
ネットを検索すると、noteは会員登録者数約260万人、月間アクティブユーザー約6300万人という。まさに破竹の勢いというわけだ。
これだけユーザー数が多けりゃ、ビュー数やフォロワー、スキ数が多少多くても、全体のごく一部というもんだ。
おいらの駄文なんて、針の先程もない微々たるもんだろう。
だから時々、本当に興味と関心を持ってnoteの投稿を真剣に読む人が何人いるのだろう?と考え込んでしまうことがある。
中には、専門的な知見で見知らぬ世界を教えられることや、思わず引き込まれる文章や写真を目にすることもある。
それに比べ、古い時代を引きずり、老いてサビついたことしか書けないおいらの投稿なんて、時代がかった骨董品みたいなもんだ。
娘にそのことを伝えると、こんな返事が返ってきた。
「何もすることがないんでしょ。だったら続けなさいよ。たとえ読む人が一人でもいれば良いじゃないの」
「一人もいなくなったらどうするんだ?」
「それでも良いじゃない。だってお父さんが自分で読むでしょ。自分という最高の読者がいるじゃん。noteは自分が自分自身とつながる最高のツールと思えば良いの。そこにお父さんの息づかいを感じるはずよ!」
ふ〜む、「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」か。
誰のためでもない。noteは自分のために書いていると思えば良い?!
おいらにとってnoteは、やっぱり自分のための一里塚なのだ。
さて、あすは晴れるのか?曇るのか?
*フォト ▽裏を見せ、表を見せて
*俳句巡礼 あきゆきが聴く幻の夏ふよう(中上 健次)
夏芙蓉(なつふよう)という季語はない。小説「枯木灘」などの芥川賞作家中上健次の句。
あきゆき(秋幸)は「枯木灘」の主人公で、夏ふようのような「母」をイメージした句といわれる。
1990年6月、和歌山県新宮市に中上提唱の熊野大学が創設され、作家野坂昭如が記念講演したあと料理屋で開かれた打ち上げの席で、中上がこの句を詠んだ。
季節外れの紹介になったが中上ファンからこの句の存在を教えてもらった。
【中上健次=なかがみ・けんじ】和歌山県出身、芥川賞作家、1946年(昭和21年〜1992年(平成4年)
【俳句手控え】「俳句は五感でつくる」という。すなわち視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚である。五感で写生句を詠む。大切なことだ。