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心ってどこにあるんだ〜*落書きnote

 こんにちは。お立ち寄りいただきありがとうございます。
 新聞社の短歌選者をなさっているご婦人から歌集をいただいた。有名出版社から出た225ページの立派な本。おいらは短歌には暗い。もったいない気がする。
 中に「打ち水に立つ風のあり老いと共にこころ澄みゆくなどと思えず」という歌があった。
 そうだ、共感するね。老いと共に心が澄んでいくなんて、おいらは素直に賛成できない。むしろ浮世の垢が年々歳々こびりついて中々剥がれない?
 ホイットマンだったかに「若い人は美し、老いはさらに美し」という言葉もあったが、そんなのは理想論、とおいらはまたひねくれるんだ。

 最近は老残というのか、めまぐるしく移り変わるAI時代の世の中に取り残される自分を恨めしく思う。
 ということは、おいらはまだ俗欲、俗臭ふんぷん、未練たらたら、万事枯れる老いの心境とはほど遠い。
 おいらはまだ「たまに善を積むといえども賛辞というか名利を期待している」し「他人の悪口は言い募るのに自分の非は顧みず」(鎌倉期の愚迷発心集=解脱上人貞慶)という戒句にさえ知らんぷりを決め込んでいる。
 前者は「不純な善意」であり、後者は「自己矛盾」だ。おいらが自分を「無価値に生きたり」というのはそのことによる。

 折しも、スマホのユーチューブにはビンテージものや現代版のクリスマス・ソング特集がやたらに増えてきた。
 中でもおいらが好きなのはナット・キング・コールのクリスマスソングだ。
 キング・コールがベルベット・ボイスで歌う「オータニバウン」などは、美しいメロディーと相まり自分の内側にある不純物がしっとり洗われるような気がする。
 このベルベット・ボイスを聴くとつかの間、おいらは「洗礼を受けた」ような清清しい気分になる。

 これは、おいらの心がそう感じる。
 では、心って何だろう。
 人体の器官には名称がある。頭脳、心臓、肝臓、腎臓…。だが「心」には名称があるけれどこれという器官が見あたらない。
 広辞苑を引くと、心の多様性について触れ①精神作用②知識・感情・意思の総体③気持—などど抽象的で「人間の目にはみえない」という解釈が加わる。

 「それは頭脳のことだ」「いや心臓のことだ」と論争が続く。だが、未だに心が体のどの部分をさすのか医学的、科学的な結論は出てこない。

 つまり古来この方、現代に至るまで「心はどこにある?」というテーマを引きずり、学問的には未確立なカテゴリーだ。
 おいらにはそういう難しいことは解らないが、心は、体の隅々にある全身全霊の魂、濁にあっても純を求める意志と考えているが、やっぱり俗欲、俗臭にまみれて当分生臭いままだなあ。
 さて、あすは晴れるのか?曇るのか?

   *フォト ▽向寒の折り柄!!

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 *俳句巡礼 夕暮れの頭巾へ拾ふ紅葉哉(大川 立砂)

 季語は「紅葉」で秋。紅葉便りたけなわ。今年の色づきは鮮やか、と。実感としては初冬だが、野山や庭園は錦秋を歌う。
 【大川立砂=おおかわ・りゅうさ】小林一茶が父とも慕う俳人だった。一茶はこの立砂の店で働き、俳句の薫陶を受け、才能が開花したと考証されている。
 立砂は江戸時代の俳人、現在の千葉県松戸市にあたる旧馬橋村の油商人、葛飾派今日庵二世の森田元夢の弟子、栢日庵(はくじつあん)と号し、多くの弟子たちを指導した。
 【俳句手控え】久保田万太郎の「神田川祭りの中を流れけり」のように「けり」という言葉は、物事を言い切る切れ字のこと。「きっぱり感」が句の深みを強調している。

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