【3分読み切り超短編笑説】一杯のかけ蕎麦セレブ編・・・の巻
隼人がランドセルの側面にぶら下げてある自宅の鍵で玄関のドアを開けると、いつもあるはずのない母親の靴が揃えてあるのを見つけ、不思議に思ったその瞬間に「おかえり隼人」との声が耳に届き、短い廊下の先に立った母親の姿を見つけて歓喜の声を上げた。
「ママ! どうして居るの? お仕事は?」
隼人は思わず歓喜の声を上げ、汚れたスニーカーを乱雑に脱ぎ捨てて小走りに真由美に駆け寄った。「お兄ちゃん、おかえり」食卓には妹の亜紀が笑顔を浮かべてちょこんと座っていて、ますます状況がつかめない隼人は嬉しい気持ちが湧き上がってくると同時に、戸惑いの思いも拭えず、少し複雑な笑顔を真由美に向けた。
「きょうはね、お勤めしてる会社が急に午後お休みになったから早く帰ってこられたの。真っ先に亜紀を保育園へ迎えに行って、さっき帰ってきたのよ」
真由美と亜紀は、ねーっと顔を斜めにしながら顔を見合わせて笑った。なんだそういうことかと隼人も合点がいき、四畳半の子供部屋にランドセルを置いて食卓へ戻ってから改めて「やったー! ママおかえりー!」と喜びを爆発させたのだった。いつも真由美の帰りは深夜に及ぶことが多く、きょうは亜紀を保育園へ迎えに行く必要もないし、宿題はママの側でやれるし、そして何より晩ご飯は恐らくあの焼きそばを食べなくて済むのだ。
「あの焼きそば」というのは、自宅のアパートから1分程度歩いたところにある狭い十字路の角にある駄菓子屋さんで売っている、唯一夕ご飯になり得る食べ物だった。並んでいるのは、ほとんど酢イカや黒糖和菓子やベビースターラーメンなどの駄菓子ばかりだが、レジ横の壁の張り紙に「焼きそばあります」の文字が汚く書かれていて、隼人はまるで自分のためだけに用意された特別メニューのように感じていた。 特別といっても、もちろん嬉しくない特別だが…。
クラスメートの翔一は塾の帰りに必ずと行っていいほどその駄菓子屋へ寄り、ベビースターラーメンを買っていく。そして、焼きそばを食べる隼人を見て、「俺も食ってみたいなあ、焼きそば。こんなところで一人で晩ごはんを食べるなんて、隼人は大人だなあ」と、いつも羨ましそうに言うのだが、毎日食ってる身にもなってみろと言い返したいのをこらえて、隼人はエヘヘと少し笑って焼きそばをいそいそと頬張るのだった。
「きょうはママと何をしよう。時間はたっぷりあるしね」などと言いながらはしゃぎ回る隼人と亜紀の姿を、あふれてきそうになる涙をなんとかこらえながら真由美は眺めていた。
「きょう会社をクビになった」なんて、絶対に口にはできない。パートで務める会社の経営者の不祥事によって急激に売上が減少し、お昼休みを迎える直前に突然の解雇を通達されてしまったのだ。渡された日割りの給料は、督促されている借金を返せばパー、今度こそいよいよ無一文になってしまう。4年前に夫の雄一郎が病死してからというもの、なんとか今日までがむしゃらにやってきたが、何度も足を運んでは断られた生活保護申請窓口へ通う気力は、もう真由美には残っていなかった。だが、きょうの深夜までは最後の力を振り絞らなければ…。
「さあふたりとも、今日は美味しいものを食べに行くわよ! 外でお食事よ!」
隼人と亜紀は、真由美の提案に一瞬きょとんとしたかと思いきや、大きな声で「やったー! 外でお食事だあー」と叫んだ。
小学校4年生の隼人と5歳の亜紀。二人は真由美の前を小走りしながらふざけ合っていた。こんな繁華街へ来るのは何年ぶりだろう。まだ雄一郎が生きていた頃には一度や二度は来たこともあっただろうが、もはや思い出すことも出来ない。いくつものネオンの輝きにはしゃいでいる二人の子供を見ながら、真由美は覚悟を決めようとしていた。
もう最後の外食になるかも。いや、最後の食事になるかもしれない…。
真由美は五十数枚の百円玉が入ったビニール袋をポケットの中で握りしめ、ちょうど赤信号で立ち止まった所でしゃがみこんで隼人と亜紀を呼び、向かい合った二人のそれぞれの肩を両手で抱え、じっと目を見つめながら言った。
「いつもお家でお芋と卵のご飯ばっかりでごめんね。きょうは奮発して、久し振りにご馳走よ。ただし、三人で一つ、だからね。一つを三人で仲良く分けましょう。ねっ」
なにかいつもと違うムードを子どもながらに感じたのかどうかは定かではないが、笑顔を見せる亜紀、そして無邪気に飛び跳ねている隼人の姿を見ながら、真由美は目頭が熱くなるのを抑えられなかった。そして、やがて意を決したように、二人の子ども達を左右の手で引き、真由美は「かに道楽」へと入っていった。
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――――――――――――『一杯の蟹』おわり
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