感謝報恩 〜あるものに目を向ける


〈この記事は2023年7月に、私の運営する教室の会員向けに書いたコラムです。出来事は同時のものであり、内容はあくまでも私個人の意見です。〉

お知らせしておりました高津宮夏祭りの奉納演武、今月17・18日にあると思っていたのですが、残念ながら今回は出番なしとなってしまいました。スケジュールを空けていただいていた皆様には、大変申し訳ございませんでした。それに代わって、というわけではありませんが、今月は企業研修のアシスタント、某保育園園児への合氣道体験講習、高津宮宿泊体験のこども達への氣の教室、など、普段はないイレギュラーな機会をたくさんいただける月となりました。教室で皆さんにお伝えすることがもちろん私のメインのお仕事ですが、こうした外部講習の機会は、心身統一合氣道をより多くの方々に普及していく大きなチャンスになります。氣の知れた会員さん達にお伝えするのとは違った緊張感やプレッシャーもありますが、こうした場をいただけることで私自身を磨くことにも繋がり、大変有り難い機会です。会社や学校・幼稚園、サークルやクラブ、寄り合いでも、「氣」の体験の機会を作ってみたい方は、是非私にご相談くださいね。

奉納演武の場は、昨年初めて機会を与えていただき、私個人的にはとても良かった、そして当たり前のように、今年もあるもの、と思い込んでしまっていました。しかし、一昨年までは全くそんな機会はなく、「ない」ことが当たり前だったわけです。単なる思い込みで、「ある」と思っていたものがなかったことで、何かとても大事なものを失くしてしまったかのような感情になります。「ある」ことが当たり前になっていると、それが「当たり前」ではなかったとき、マイナスな感情に陥ってしまいます。「ある」は当たり前ではなかったのだ。「有り」「難(がた)い」ことなのだ、と知ることで、改めて感謝することが出来ます。「ありがとう」って、何気なく使っていますが、「ある」ことが当たり前ではない、大変貴重なことなのだ、と氣づくことのできる、とても大切な言葉なのだな、と最近実感しております。

「ない」に目を向けていると、いつまでもどこまでも、満たされないマイナスな感情を呼び寄せ続ける。
「ある」に目を向けていると、それが「当たり前」ではないことに氣づき、「感謝」することが出来る。
たったこれだけのことでも、日々の自分自身の心の向け方が、とってもプラスになると思いませんか?

「有り難う」の反対語は「当たり前」。普段私たちは、いろいろなことを「当たり前」と思って生活していますよね。
例えば、電気・ガス・水道が使えることは、当たり前。雨風を凌げる家屋があることは当たり前。毎日ご飯が食べられるのは当たり前。学校に行き、勉強できるのは当たり前。会社に行って給料を、なんならボーナスまでもらえるのも当たり前。
立って歩けるのも当たり前。それどころか、走ったり跳んだり転がって受け身をとったりできるのも、合氣道が出来るのも当たり前。
目が見えて、耳が聴こえて、話が出来て、排泄が出来て、夜眠れて朝起きて、呼吸が出来て、当たり前。
日本国があって、地球があって、太陽があって、雨が降って、風が吹いて、生きるのにちょうどいい環境があって、当たり前。
いっぱいありますよねぇ〜

もちろん、上記に挙げたものの中でも、一部については、これを読む方の中にも十分享受できていない方がおられるかもしれません。ただ、そういう状態であっても、何にせよとりあえず「今、ここ」の現時点においては、生きて生活を送ることが出来ているわけです。足りないことを探せばキリはないですし、他人と比較すると不足や不満が出てくることもあるかもしれませんが、ちゃんと生きているというだけで、まず「生命」は「ある」わけですよね。空気はある、家はある、ご飯は食べられる、などなど、「ある」ことに目を向けることが出来れば、感謝の対象を見つけることが出来ます。それは必ずしも人ではないかもしれません。この地球環境を与えてくれた天地自然にまで視野を広げたら、天地には感謝するしかないことに氣づけるはずです。プラスの感情を保持するために、心のどこかで「天地への感謝」、この視点を持つことは重要であると考えています。

これは自分自身に目を向ける時にも、大切な考え方であると思っています。自身を磨いていくために、「自分には何が足りていないのか?」「自分の中の改善すべきことは何なのか?」、といった疑問を抱くことは必要なことです。その答えを燃料として、更に自身を高めていく方向へ進んでいくことが出来るのであれば、全く問題のないことですよね。
一方で、「自分には能力なんてないんだ…」とか「自分に出来ることなんて何もない…」などという考え方はどうなんでしょうか?同じ「自分の不足しているところに目を向ける」ことではありますが、自己を高めていくためのエネルギーにはならないように感じます。「ない」こと、「足りない」ことに目を向ける、つまり「反省」の視点は、こうしたマイナスな状況に陥るリスクを秘めているのではないでしょうか。
私は、この両者の違いは、根幹にある感覚の違いであると思います。前者は、足りないことに目を向けながらも、根幹の部分では、自分に「ある」ことを知っている、信じているからこそ、今足りない何かを求めることで、より自分自身を高めていけるという信念が持てます。後者の場合には、元より自分自身に「(能力が)ある」という根幹部分が欠けてしまっており、足りない部分を見つめることが、プラスに転じていけなくなってしまいます。この差は、とんでもなく大きいことですよね。

天地自然に対する感謝の念と同じように、我々人間に与えられた能力に対しても、「ある」ことに目を向けて「感謝する」ことは大切なことです。人間の持つ能力は素晴らしい、人間の持つ可能性は無限に広がっている。最近で言えば、メジャーリーグでの大谷翔平選手の活躍を見ていると、そんな風に感じることが出来ますよね。アスリート達の持つ能力を見て、人間は鍛え上げればこんな凄いことが出来るのだ、と実感することは、誰にでもああります。アスリートのような特別な人だけでなくてもそうです。赤ちゃんの成長など見ていても、人間って凄いな、と思うことはありませんか?生まれた時は、あれほど何も出来ない存在だったのに、笑ったり、おしゃべりしたり、立って歩いて走って、成長したらいつの間にか親の知らないこと、親の出来ないことまで知ったり出来たりしています。身体の仕組みもそうです。気温が高くなれば汗をかいて体温を下げてくれたり、ウィルスが入り込めば高熱を出してそれを滅してくれたり、変なものを食べれば嘔吐や下痢をして体外に排出してくれる。
こんなことを考えても、我々人間には素晴らしい能力がある、というのは、疑いようのない事実です。それなのに、それを大して発揮することもせずに、「自分には能力がないから…」とか「自分は大したことがないから…」という考え方を持ってしまうのは、「ない」ことにばかり目を向けてしまうせいではないでしょうか?

いつも言っているのですが、人間は自分の見たいものを見たいように見る、という性質があります。「アイツの性根はろくでもない」、そう思っている人に対しては、やることなすこと「ろくでもない」と見えてしまいます。「あのお方はなんて素晴らしい人なんだ!」、そう思っている人の言動は、全てが聖人のように見えてしまいます。自分の中に「ある」ものを見ようとするクセをつける。そうすることで、まず自分には無限の可能性があることを信じることが出来ます。そう信じて行動する人と、「どうせ自分は大したことないよ…」と信じている人の向かう未来は、どれほど格差が広がっていくことでしょうか?

大谷翔平選手の例を出しましたが、彼が、根幹の部分で自身の持っている能力の素晴らしさを知っている・信じている、というのは、恐らく間違いないでしょう。「自己肯定感」、「根拠のない自信」、そういったものを自分の心の奥底の部分に養っていくこと、育てていくこと、信じられるようになること。それってメチャクチャ大切ではないですか?

「氣が出ている」、「天地に任せきる」、ってそういうことだと思っています。

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