やわらかさ
※2023年1月に私の教室の会員の皆さんに向けて書いたコラムです。内容はあくまでも私個人の意見です。
「やわらかさ」
2023年(令和五年)最初の通信です。皆さま本年もどうぞよろしくお願いいたします。昨年自分の身の周りに起こった諸々の出来事から、今年は身体を労わりつつ、それでいてしっかりとフル稼働していくことを目標にします。そして、これはいつでもそうですが、昨年の自分を上回ることも、常に掲げている目標です。皆さんはどんなことを考えて新年を迎えましたか?
既に1月も半ば過ぎになって、この通信を書いております。いつものペースからすると、少し遅いこの時期になっているのは、今ひとつピタッとくるテーマが思いつかなかったからです。早い時は前月の間に大まかな話の流れが思いつくこともあるのですが、今回はしばらく寝かせておいての今この時です。
その間に、心身統一合氣道会本部による鏡開きと、光心館道場の鏡開きがありました。そして、奇しくもその両方で私に突きつけられたテーマが、表題になっている「やわらかさ」です。まずは、藤平信一会長が今年のテーマとして「やわらかさ」(真のリラックス)をあげられ、続いて光心館道場鏡開きの私の演武に対する、我が師匠からの講評でも、「やわらかさ」を今後の課題として挙げられました。
ということですから、私の今年のテーマは、冒頭に書いたことに加えて、「やわらかさ」を追究することとなります。
やわらかい、というのは、一つは物理的・肉体的なこととなります。ですが、「身体がやわらかい」と言う時、大概の場合は”柔軟体操的な”やわらかさを指していますよね。もちろんその「やわらかさ」は、大切なものであり、必要なことです。例えば、大相撲の力士たちは皆、股割りをしてお腹が地面にベッタリとつくそうですよね。柔軟性があるということはケガをしにくくなり、各関節の可動域が大きいことから、ダイナミックに身体を使うことが出来ます。合氣道の技は、全身を使って行いますが、関節が柔軟であることで、肉体的なパワーはより大きく使えるようになります。
しかし合氣道の中では、その柔軟性とは違った意味の「やわらかさ」を感じることが多くあります。それは特に、手首や腕などを持った時の感触として感じ取ることが出来ます。人により表現は異なるでしょうが、私の感覚で言うと「骨がやわらかい」ように感じられる人がいます。それは、大抵の場合、高段者の師範クラスの先生方の手を持たせていただいた時に感じます。
合氣道ではよく、相手の手首を片手で握るように持ちます。手首ですから、そんなに大きな筋肉がついていることはなく、ほとんどの場合、橈骨と尺骨という2本の骨に触れるような感覚になります。魚や骨つき肉を食べる時に感じる「骨」には、弾力などなく、どれも同じように”硬い”という感覚がありますよね。しかし、高段者の合氣道家の手首を持った時は、確かにその2本の骨に手が触れているはずなのに、何故か硬さを感じずに、「骨がやわらかい」と感じることがあるのです。
恐らくこれは、手首を持たせている側、つまり高段者の意識によるものです。手首を握ってきた相手の力に対して、ぶつかって抵抗するような意識がある時は、知らず知らずに緊張しており、意識において相手とぶつかっています。そんな時、握っている側はそのぶつかりを「硬い」と感じるわけです。ところが、手首を握らせている側の意識が、深いリラックス状態にあり、相手とぶつからない心である限りは、握っている側はあまり手応えがなくて、「やわらかい」と感じるわけです。
こうやって説明すると、それは無抵抗な、氣の抜けたような感じに捉える方もいるかもしれませんね。しかし、この「やわらかい」腕を押しても引いても、相手はビクともせず、盤石の状態となっています。「動かせる氣がしない」という感覚です。つまり、「やわらかい」けど「強い」のがこの状態です。
そのやわらかさをもって素早い動作を行なった時、とてもしなやかに伸び伸びとして見えます。そして何より、「動」の後の「静」が、本当に本当に静まって見え、その「場」を静寂にするような雰囲氣を持っているように見えます。「美しい」合氣道、「美しい」演武。私がまさに目指しているところです。静まった後の「余韻」を感じられるような「やわらかさ」、是非とも身につけていきたいと思っております。
以上は、物理的・肉体的な「やわらかさ」についての話でした。
私は「やわらかさ」にはもう一つ、心理的なものもあると思っています。
「骨がやわらかい」という話のところで、”意識”の問題について触れました。いつも話に出てくるように、「心が身体を動かす」、という大きな原理原則があります。心の状態は、必ず身体に表れるわけです。では心理的な「やわらかさ」、つまり「心がやわらかい」とはどんな状態でしょうか?
言葉としては、「柔和な人」「温和な人」というのが、「やわらかさ」の表現として言えるでしょう。私自身、どちらかと言えばこのタイプとして分類されることが多いように感じます。藤平光一先生が、自らも出来ているわけではないが、理想とする姿として掲げられた「行修十訓」の中にある「慈眼温容」という言葉が、これにあたります。厳しく相手を睨みつけるような顔つきではなく、温かく相手を包み込むような表情。そのような心境でいつもいられる人間性…。かくあるべし、と思わされますね。この世の中、生きているだけで「イラッと」したり「ムカッと」したり、表情が鋭くなったりキツくなったりする場面はいくらでもあります。そんな場面でも、「万有愛護」の精神でいつも温和な表情でいられる「やわらかさ」、心掛けたいな、と思います。
同じく「やわらかさ」を表す「柔」の字を用いる言葉で、「柔軟」もありますね。「柔和」が、"どんなものでも受け入れる度量の大きさ"、のイメージであるのに対して、「柔軟」は、様々な変化や予想外の展開に対して、頑固に凝り固まることなく、自在に変化することの出来るイメージがあります。(あくまでも私の個人的な感覚です)固定的な観念による決めつけや思い込みがある時は、柔軟性が失われます。変化を嫌ったり怖れたりすることも、柔軟な思考を妨げる要素でしょう。包容力や許容する力、度量の大きさといったものも、柔軟さに繋がるかもしれませんね。
但し、「柔軟さ」と混同してしまいがちなのが、風見鶏や日和見主義です。包容する力、許容する力が発揮される際に、何でも受け入れてしまう、何でも許してしまうことは、必ずしも正しくはありません。「軸がブレる」とか「本質が変わる」ような「柔軟さ」は、風見鶏や日和見主義です。
だからこそ、この「本質」を外さないこと、変えてはいけないことは変えずに貫くことが、「柔軟」であるためには大切なことだと思います。身体のことで言えば、土台の姿勢を崩さないからこそ、完全にリラックスすることが出来る、ということと同じですね。
対人関係、たとえばこども達に対する態度で言えば、こども達の本質をマイナスなものと捉えれば捉えるほど、その自由奔放な言動を許容することが出来なくなります。「あの子とは付き合うな」とか、「あの場所へは行くな」、「しゃべるな」「走るな」「遊ぶな」などなど。。こどもを信じられないから縛ろうとし、柔軟に受け入れることは出来なくなります。
反対に、「こども達には人間本来の素晴らしい能力があり、何をすべきか、何をしてはいけないか、ちゃんと分かる力を持っている」、そう信じることが出来たなら、「お前の思うようにしなさい」と柔軟に任せきることが出来ますよね。
そんな風に、総ての人に対して接することが出来るのが、「万有愛護」の天地の心なのでしょうね。
まとめると、物理的には、柔軟体操などの可動域の広さという「やわらかさ」と、「骨がやわらかい」と感じるような「質」的な「やわらかさ」があります。心理的には、「慈眼温容」の「やわらかさ」と、本質の柱がしっかりしているがゆえの「柔軟さ」としての「やわらかさ」があります。これらを潜在意識レベルに落とし込み、「やわらかさ」のレベル向上に励んでまいります。皆さんもご一緒にいかがでしょうか?
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