生成流転(発展)

※この記事は2022年3月に、私の教室の会員の皆さまにお配りしたコラムに書いた内容です。内容はあくまでも私個人の考えであり、会としての意見等ではございません。

「生成流転(発展)」

春らしさを感じられる機会が増えてきました。年度末の3月、人の移動が多くなる季節で、我々教室運営者にとってはドキドキの季節でもあります。出逢いと別れ、悲喜こもごもが交錯します。新年度にあたり教室を離れる方、お世話になりました、お元氣で!新しくお仲間に加わってくださった方、ようこそ!どうぞよろしくお願いします。

今年の春は大きな動きをとることになりました。指導員になって一番最初に開いた堺市の新檜尾台教室を、残念ながら閉鎖することとなります。新檜尾台教室の皆様には、大変申し訳ございません。

これに代わって、新たに「高津宮教室」を開設することにいたしました。毎週土曜日の午後から夕方、こどもクラス、大人クラスを設けて、また一から教室を作っていきます。

天地自然に止まっているものは何もありません。天体は自転公転し、細胞は常に生まれては滅んでいき、固形物とて経年劣化していく、というように動き続けているのが当たり前。

「天地は生成流転して瞬時も止まらない」(天地の姿)と言うように、変わらないものは何もないということです。同時にただ混沌としてうごめいているのではなく、「生成発展」という一定の方向性を持っているのも、天地の法則の一つです。だから人は、赤ちゃんが親の話すのを聞いて喋り出し、歩くのを見て立ち上がり歩き出す、というように、常に成長し発展し続けるよう動いていくのが自然であると言えます。

この春からの教室の閉鎖・開設という変化も、その一環であると考えています。一部の方にはご迷惑をおかけしますが、それ以上にまた多くの方に喜んでいただけるものを築いていこう、とひとり氣を吐いております。


●身体を止めようとしない

止まらずに動き続けること。これは合氣道における「多人数掛け」では、必須のことです。多人数掛けでは、数人の相手が同時に攻撃してきます。一度に何人も相手にすることは、当然ながら不利であり危険なことです。これを行う者は、必ず相手に囲まれないように、常に一人の相手と向き合う「一対一」の状況を作っていきます。そのために、一番やってはいけないことが「居着く」ということ。宮本武蔵の「五輪書」にも”いつくは死ぬる手なり”という言葉があるそうです。常に動き続けていないと、必ず相手に捕えられてしまいます。いわゆる「隙」(すき)が出来るわけです。「多人数掛け」ではこのことを常に注意されます。


いつも教室では、「氣のテスト」で姿勢のチェックをしています。安定している姿勢が自然の姿勢であり、これを目指すのですから、氣のテストをして「動かない」ことが「正解」とされています。しかし、この時に「動かされないように」と、身体を止めておこうとすると、実は反対に姿勢は不安定となり、土台を失って、押されて崩れてしまいます。(これは体感していない方には、分かりずらいかもしれません。教室にお越しの際にお申し付けいただきましたら、いつでも体感していただけます。)つまり、自然なバランスを失った、不安定で無理な姿勢になっている、ということです。これの何が問題なのかと言いますと、不安定な姿勢だと、それを補正しようと人間の体は自然にどこかに力が入ります。そして、それが続いていると、そこに疲れが溜まったり怪我に繋がったりするわけです。

身体を止めようとすることは不自然である、ということですね。


●心を止めようとしない

藤平先生は常に、”心には心の、身体には身体の法則がある” と言われ、心身両面から物事を説明されていたように思います。ということで、ここでも「心」の面から考えてみましょう。「心を止める」ことはどうなのでしょうか?

そもそも人間の心は、常にコロコロと動き続けるもの。今、本を読んでいたかと思っても、1秒後には今日の晩ご飯のことを考えていたりします。

「心こそ 心迷わす心なれ 心にこころ 心ゆるすな」

これは、沢庵禅師の「不動智神妙禄」にある歌だそうで、藤平先生がこの歌を書かれた色紙が、光心館道場には飾られています。コロコロと変わり続けるのが心であり、コントロールすることが難しいもの。だからこそ、その自分の心を客観的にみつめる視点を持ち、心に囚われて周りの状況などが見えない状態に陥らないように、いつも自分を律するものだ、という意味の言葉であると、私自身は受け止めています。

心を一つ所にとどまらせておくこと。これを別の言葉にすると、「執着」ということではないでしょうか。心はその性質の通りに、自在に動き回らせておくのが「自然」というもの。それを無理矢理に一つのものに執着した状態を続けることは、「氣の滞り」につながります。

例えば、仕事で接したある人に自分が氣になる嫌な言葉を言われたとします。(「顔が丸いね!」とかw)その人には悪気もなく、それほどこだわっているポイントではないので、話はすぐに別の話題に移り、どんどん本題の仕事の話が進んでいきます。その時に、自分はずっと氣にしていることを言われた、という点に心がとどまり、先に進めません。「心ここにあらず」です。仕事の話には集中出来ませんよね。しかも、そのことがずっと氣になっていると、次にこの人に会った時も、「あの時こんなことを言われた」ということが心を離れず、本来するべきことに心を自在に使って、向き合うことが出来ません。それをきっかけに、この人のことを信頼出来なくなったり、まともな交渉が出来なくなったりするかもしれません。


「氣の滞り」ですね。氣が滞ると、心を自在に使えなくなります。氣の滞りを晴らすには、氣を出すこと。何か他のことに集中して取り組む、でも良いですし、敢えて「あの時言われたひと言に私は嫌な思いをした」と相手に伝えて、根本の原因を取り除くことでも良いかもしれませんね。サラリと忘れて仕事に集中する、でも良いでしょう。何にせよ、「あの時の恨み…」といつまでも心を留めておくことが、一番良くない状態を持続させてしまうのではないでしょうか。


心は動き続け、移り変わり続けるもの。自分に対しても、他人に対しても、「そんなもんだ」と受け止め、心の自在な動きを止めようとすることを諦める。そうして常に、これからの行く先に目を向けて、そのために今ここですることに心を向けていく。そうすると、時は常に流れ続けていくものである以上、心も流れを止めずに走り続けていることが当たり前、になるのではないでしょうか。


年度代わりで大きな動きがたくさん生じる季節です。だからこそ、心も身体も止めようとせず、その流れに任せて動き続けること。そうしてその流れは、「生成発展」に繋がるものであると信じ切ること。そんな風にしていることで、心身ともに元氣で健康でいられるように思います。

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