言いなりと素直の違い
※2024年3月に私の教室の会員向けに書いたコラムです。内容はあくまでも私個人の意見です。
「言いなりと素直の違い」
年度末の3月になりました。銀行員時代の3月は、いつもとても追い詰められた心境で迎えていました。年度末に仕上げるべき数字(ノルマ)、これを今月中に達成するために、どれだけのことが必要なのかが突き付けられるんです。今は、新年度を迎え新たに心身統一合氣道の門を叩いてくれる方たちへの期待と楽しみさ、そして去っていく方がいることへのちょっと寂しい氣持ちが入り混じった心境です。こども達は卒業や進級進学で、ちょっとザワザワする季節ですよね。皆さんは、どんな3月を迎えているでしょうか?
さて今月は、最近私が講座を受けていて、何度も聞いたことだけど改めて感じ入ったことについてお伝えいたします。
皆さんは「素直」(すなお)という言葉に、どんな印象を持つでしょうか?私は「素直」は英語で「innocent」(イノセント)と思い込んでいました。Mr.Childrenの曲「innocent world」(イノセント・ワールド)のアレです。ですが、改めて翻訳アプリで調べると、innocentは「無実の」「あどけない」「初々しい」「うぶ」などの意味が出てきて、「素直」という単語は出てきませんでした。
逆に「素直」を翻訳してみると、いくつかの単語が出てきました。一番目に出たのは「obedient」(オビディエント)という言葉。これの語源は「従順な」という言葉で、obey(従う)という単語と関係しているようです。そして他に出てきたのが、「amenable」で、これも「従順な」という意味。「amen」(アーメン)から来ているようです。キリスト教のアレですね。このアーメンは、「まことに」「しかり」という意味だそうです。面白くないですか?
翻訳アプリで出てくる「素直」を示す英単語は、「従順な」という意味で、何か(誰か)に従って逆らわないことをもって「素直」と表現されています。つまり、「素直=言いなり」という意味になっているわけですね。こうなると、「素直」という言葉、人から言われたら、褒められているのではなく、何だかバカにされた氣持ちになってしまいますよね。
自分の訳を正解にしたい訳ではありませんが、「innoent」の名詞形「innocence」を翻訳してみたら、「純真」「無邪気」「天真爛漫」などの言葉が出てきました。私はこっちの方がしっくり来ます。
「氣の学習の五原則」というのがあります。
一、素直であること 二、飽きずに続ける 三、日常の工夫 四、潜在意識を変える 五、指導者たる心がけ
私が大好きな五原則の一つです。全部解説するととても長くなりますので、この一番目「素直であること」について。
「氣の学習の・・・」と書いてますが、全ての学びについて言えることだと思います。「素直」でなければ、学ぶことは出来ません。例えば、私が今から他の武道を学ぶとします。教わりながら、きっと全てのことについて「合氣道ではこうする」「うちならこうだな」などと、違っている所が氣になって、そこにこだわってしまい、全く学んだことが入ってこないでしょう。本当にきちんと学ぼうとするのであれば、一度自分の知識や経験は傍に置いておいて、素直に聴いておかなければ学べません。
この「素直」について、私はこんな風に教わりました。素直のす(ス)とは、宇宙根源の力(神)を示す意味があり、その「ス」に「直」(直結している)であることを「素直」というのだ、と。松下幸之助さんの言葉にも、こんなのがありました。「本当の素直とは、自然の理法に対して、すなわち本来の正しさに対して素直である、そういうことやな」と。
つまり、素直であることというのは、「何が正しいかが分かる心」すなわち「霊性心」を伴った感覚であり、イコール「心身統一」であることを意味しています。どうしたら松下幸之助さんの言われる「本来の正しさに対して素直」となれるのか?そこには、どうしたら「何が正しいかが分かるのか?」という問いが含まれますよね。正しいと思えることには素直に従っても良いですが、おかしいことには、心の奥底にある何かが「これはイヤだ」という反応を示しています。この感覚はとても大切なものです。そういう感覚を失わせてしまうのが、「頭の中で考える」ことではないでしょうか。そこには「妄想」(=打算、不安、恐怖など)がうごめいてしまい、本来の感性を曇らせます。曇った感性で判断すると、正しいことを見極めることが出来なくなってしまいます。だからこそ、臍下の一点に心を静めて「肚(ハラ)で考える」ことが重要になります。
人を従わせようとする時、相手に対して「言いなり」になることを望んでしまうことはありませんか?こどもに対して、部下に対して、家族に対して、世間に対して、等々。。。「素直に言うことを聞きなさい!」という時は、相手が何を考え、何を望んでいるのか、想像する心がなくなっています。相手のために良かれと思って言うことではありますが、それが相手にとって受け入れられる状況なのかどうかを想像する、「相手の立場に立つ」が出来なくなっていますよね。そんな時ほど、相手は決して「素直」にはなれませんよね。きちんと何が正しいかを判断できて、そのことに素直に行動できるようになるには、相手も「心身統一」であることが必要です。相手が心が静まって、ちゃんと素直に行動できる心境にあるのかどうかは、まず自分自身が心を静めて、きちんと相手に心を向けていると「察する」ことが出来ます。それが出来ない状態である相手に、いくら言葉や態度をぶつけてみても、ぶつかって反発するだけで、浸透していくことはありませんよね。
人に対して、ただただ言うことを聞かせたいのであれば、「言いなり」にすれば良く、そのためには恐怖による脅迫や洗脳などで、相手の判断能力を奪ってしまえば良いわけです。でも、そんなことを望むのは、ただの詐欺師だったり独裁者だったり、人としておかしい人ですよね。「素直さ」を求めることのベースには、相手に良かれと思う心があり、相手が良い方向へ向かって成長していくことを望んでいる心があるはずです。そうであるならば、相手が「何が正しいかが分かる心」をきちんと発揮できる状態に導くこと。その上で、天地の理に則った正しいことを伝え、相手がそのように行動できるように導くこと。そしてその際に、相手にもちゃんと何が正しいかが判断できる力があることを信じて、その力に対してアプローチしていくこと。そうすれば、相手の「素直さ」が発揮されて、ちゃんと正しい行動が出来るはずですよね。
これがいつでも自分で出来ているのか?と問われれば、出来ていないことも当然あるでしょう。けれど、私はこの意味で「素直」でありたいと思い、相手に対して、特にこども達に対して、このような「素直さ」をいつも発揮できる人であってほしいと思って、相対しております。まあ正直言って、「うるさい!言うことを聞け!」という氣持ちになったり、そういう言動になってしまうこともありますが、いつも後で反省します。こどもを「言いなり」にさせ、判断力を奪うような「押し付け」をしたくありません。正すべきこと、注意すべきことはきちんと伝えますが、そのように相手が行動出来ない時は、ちゃんとその相手なりの理由があります。それを尊重し、相手が自ら氣づき、自ら行動できるように、少しずつ潜在意識に入れていくこと、押し付けずに繰り返し伝え続けること、それが大切なのかな、と感じています。
これはいずれも、心身統一の四大原則や心身統一合氣道の五原則に書かれていることです。この原則に従って物事を判断すると、あまり間違えることはないと思っています。相手に「言いなり」を強いるのではなく、いつでも本当の意味の「素直」でいられるように、自分を整え相手を導くこと。合氣道も日常生活での人間関係も同じだなぁ、といつも感じています。だからこそ、日常生活そのものが合氣道の稽古であり、合氣道を身につけることが日常生活にも役立つのだと思っています。
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