「自立の教え」


〈この記事は、2022年5月に私の教室の皆さんに向けて書いたコラムです。内容はあくまでも私個人の意見です。〉

2022年4月は新教室の開設以外に、昇段審査会という大きな山がありました。我が教室から4名の皆さんが受験(2段1名、初段3名)されまして、見事!全員が合格されましたー!!皆さんがそれぞれに課題を抱えていましたが、本番で見事にそれぞれが乗り越えて、皆さん納得の合格でした。4名の皆さん、おめでとうございます!昇段昇級は合氣道の目的そのものではありませんが、進化発展のための道のりにおいて、一つの大きな目標となるものです。クリアして大きな一歩を踏み出したのは間違いありません。更なる進化発展に向けて、引き続き稽古に取り組んでいただけましたら、指導者として何より嬉しいです。
受験された皆さんは、審査そのものだけでなく、それを乗り越えるための努力をしている時点から、たくさんの進歩を体現されています。今回受験されていない皆さんも、是非、目の前の昇級昇段に前向きに懸命に取り組んでみてください。必ず、技だけでなく、生活の中でも進化を感じられるようになりますよ!

さて、嬉しいご報告はこの辺にして、今月のコラムです。「自立の教え」というタイトル。正直言ってこのタイトルは、何となく前にもあったような氣がします。が、内容は新しいものですので、安心してお付き合いください。

●自立の反対は…

心身統一合氣道、つまり「氣」の教えが「自立の教え」であるならば、そうでないもの、つまり反対の概念は何になるでしょうか?他の何かに頼らないと立てない状態、それは「依存」です。
藤平光一先生は、How to sayではなく、How to doを教えよ、と説きます。「こういうものだ」と教えを押し付けるのではなく、再現性があり検証可能なやり方を伝えて、実践・体得が出来るようにするわけです。そうして体感を伴って物事を教え、自身の腑に落ちる形で会得したものは、そのまま継続出来て身につけやすいと言えるのではないでしょうか。How to doを伴って、実践して身につけること、それが心身統一合氣道の教えの中心にあります。反対に、「問題」と「解答」の決まっているものを与えられて、それが正しいのだ、と記憶していく。これは、与えられた解答に「依存」していることにはならないでしょうか。

例えば「権威」というものがあります。我々は世の中の全ての事象に深く通じていることはありません。当たり前ですね。だから、知らないことに関しては、その道の「権威」とされる者の言うことに盲従してしまいがちです。「権威主義」ですね。知らない分野のことなのだから、確かにそうせざるを得ない部分はあると思います。しかしだからと言って、「盲従」してしまって良いものでしょうか?少なくとも、我々自身の生活や人生に関わることについて、「専門家」や「権威」と言われる者の言うことを、大して考えもせずに「そういうものか」と受け入れることは、「依存」です。権威とされる者の言が、本当に正しいと言えるのかどうか?ここに疑問を持てる感性は、必要なのではないかと思います。

日常において「依存」に慣れてしまっていると、「権威」に対して疑問を持つ感性が育たないのではないでしょうか。「正解」のある問題を解き続けていると、与えられた前提条件の中で物事を考えることが癖になります。「権威」にツッコミを入れられないのです。いつも通り、ここに書くのは私の個人的な見解ですが、普段から、自ら実践・検証して、体感して物事を会得する習慣を持つ者は、「権威」の発するものの中にある「違和感」を察知する能力が身につきます。「何かシックリこないな…」という感性です。体感してシックリくることに、日常身を置いているからこそ、おかしいことが発生した時にその「違和感」を感じることが出来るのだと考えます。

体感して腑に落ちて会得し、繰り返し実践してそれを体得する習慣。これがあることで、「自分の頭で考える」「自らの感性を信じる」ことが出来るようになります。その考えを持つ基準を作ることに、「心身統一」が役立つはずです。


●自力本願と他力本願

こうして「依存」でなくて「自立」の教えだ、と話してくると、”なるほど、すべて自分で切り拓く、ということね”、と解釈される方も多いかもしれません。つまり「自力本願」だと。しかし実は、心身統一合氣道はそうではなく、「他力本願」も大事であり認める、という教えだそうです。

例えば「護身術」という言葉。合氣道という武道は、この「護身術」と親和性の高い武道だと、世間では思われているはずです。実際に、合氣道の技は世間で言う「護身術」につながるものが多く、実際にそういう使い方が出来るものではあります。しかし、心身統一合氣道の創始者の藤平光一先生は、この「護身術」という言葉が嫌いだったそうです。ちょっと意外ではないですか?
藤平光一先生は大正生まれの方で、戦争を経験されています。それも、中国大陸に渡り、80人もの部下を率いて数年に渡り転戦し、一人の犠牲者も出さずに帰国した指揮官です。「身を護る」ことに否定的な物言いをされるのは、変な感じがしますよね。しかし、そういう強烈な経験をされているからこそ、「自分の身は自分で護れる」などという考えは、傲慢なものであると感じられていたようです。

どんなに優れたリーダーがいて、優れた部下と優れた武器を持っていたとしても、戦場においては一つ間違えれば多くの犠牲を出してしまう、というのは、戦場を知らない我々にも想像のつくことだと思います。いかに優れた「術」を修めていたとしても、単なる戦闘行為だけではなく、天候や地形などの多くの影響を受ける中で、何年も生き残ることが出来たのは、藤平先生の「能力」によるものなのでしょうか?「運が良かった」とか「何かに守られていた」と思うようになるのも、当然のことと思います。藤平先生の言葉では、「天地に護られる自分であること」、これこそが真の「護身術」だと言われていたそうです。

この無限の天地自然の中で、自分一人で出来ることなど、本当に僅かです。生命を与えられたことも奇跡ならば、ここまで生きてこられたことも奇跡、今日目覚めることが出来たことも奇跡。そう考えたら、「他力」が重要でないはずがありません。だから「心身統一合氣道」では、「心と身体を一つにすること」が ”心身統一” であるとは説きません。「天地自然と一体であること」をもって “心身統一” と説きます。天地自然に護られる、それだけの価値のある人間になることを目指すのが、心身統一合氣道という「道」です。「道」は果てることなく終わりなく続いているからこそ「道」と言います。


●「自信」〜自分を信じる

これらを踏まえた上で、私が特にこどもクラスで重視している考え、「(根拠のない)自信を持てるようになる」についてお話しします。

生きていく上では、新しいことや未知のこと、人々、国や社会などに触れていくのは、避けることの出来ないものであり、それこそが楽しいことや喜びにつながっている、とも言えます。反対に、ずっと既知のことばかりの中で生きていくマンネリ生活を想像していただければ、よく分かりますよね。そうした未知のものに触れる時に、「自信」を持って接することが出来るかどうかで、人生そのものが大きく変化してしまうのではないでしょうか。新しいコミュニティに入る時に「自信」がないと、誰かの手引きでもなければ、なかなか入っていけない、なんていう経験をされたことがある人は多いのではないでしょうか。新しい学びを始めようとする時に、自分には習得できる自信がない、続けれられる自信がない、という人は、その学びを躊躇してやめてしまうのではないでしょうか。そんな時に「自信」を持てていれば、最初の一歩を切り拓くことが出来、新しい世界、新しい可能性を広げていくことが出来て、人生が豊かになっていく。そんな風に思いませんか?

そんな「自信」。「自分を信じる」と書いて「自信」ですよね。ここで「自分」というものを、狭くて小さな概念で、今現在の自分の頭で考え、見えている範囲の「自分」と捉えてしまうと、「自信」を持つことが難しくなります。特に経験のないこと、知見のないことほど、ちっぽけな「自分」を信じることが出来なくなり、後ろ向きな状態で新しいことに接することになります。それで良い結果につながるものでしょうか?
そんな時に「自分」という概念をもっと広げるんです。「天地自然と一体」の自分。長い人類の歴史の中で、受け継がれてきた生命としての自分。たくさんの関わってきた人々(その経験知識)と一体である自分。そう考えられることで、「自分」の範疇が大きく広がり、可能性も広がって行きますよね。「自信」を持ちやすくなります。「孤」あるいは「個」としてだけの狭い概念で「自分」というものを捉えていると、そんな自分を信じることはなかなか難しくなり、「自信」が持ちにくくなります。

つまり、天地と一体である自分、天地に護られる自分、を作っていく心身統一合氣道を通して、我々は信ずるべき「自分」を大きく広げていくことを学んでいるのではないでしょうか。自分の中に物事を判断することの出来る基準となる感性を築いていくこと、自分という概念を大きく広げて、どんな時も前を向いて進んでいける精神を身につけること、そういう「自立の教え」であることを肝に銘じて、これからも皆さんに心身統一合氣道をお伝えしてまいります。


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