『指導』することの効用
※2024年4月に、私の教室の会員向けに書いたコラムです。内容はあくまでも私個人の意見です。
4月は新年度の始まり!1月も新年ということで気分一新な感じがありますが、4月は色々と人の動きも活発になるし、何より暖かくなってくるので、新しいことを始めたくなりやすいように感じます。皆さん、何か新しいこと、始めましたか?私もいくつか新しい試みを始めました。環境や習慣が変わることで、潜在意識が変わる、ということは、人生が変わるということ。ワクワクしたら、とりあえず動いてみることをお勧めします!
さて今月のコラムですが、私がとても大好きな五原則のご紹介から入りたいと思います。
【氣の学習の五原則】
一、素直であること
二、飽きずに続ける
三、日常の工夫
四、潜在意識を変える
五、指導者たる心がけ
実は先月もこの五原則に触れて、「素直」について書かせていただきました。どれもすべて大切なことだと思うのですが、今回は五番目の「指導者たる心がけ」について書きます。
皆さんは「指導」という言葉を聴いて、どんな連想をされるでしょうか?連想ゲーム(死語ですかね?)をすると、「指導」→「先生」→「学校の先生」となって、昔の体育教師的な怖い先生とか、朝礼で長話をする校長先生とか、あんまり良い印象がない方も多いのかもしれませんね。確かに漢字の意味合いからも、「教え導くこと」や、英語なら「leadership」(リーダーシップ)だったりしますので、「人の上に立つ」という印象になりやすい氣がします。ただ、「先生」という言葉は、「先に生まれる」ということで、「その道において、先を歩いている人」のことです。つまり、同じ「道」の上にいますので、上下関係で人の上に立っている、という考え方は必要ないと思います。私は心身統一合氣道の指導員で、「先生」と呼んでいただくことが多いですが、そこに上下関係はなく、ただ「心身統一合氣道」という道においてだけ、皆さんより少し先を歩いているだけのことです。ちょっと話が逸れてしまいましたね。
で、「指導」ですが、人の上に立って引っ張っていく(リードする)と考えると、なんだか大仰な、身の丈に合わないことをしなければいけないような印象を持ってしまいます。ですが、もうちょっとカジュアルに考えて、「伝える」こととか、「アウトプット」する、「プレゼン」する、というような捉え方ではどうでしょうか。これなら、別にどんな立場においても、日常普通に発生することですよね。先ほどの五原則の五番目、「指導者たる心がけ」、というのは、それぐらいのレベルで「指導」というものを捉えると、理解しやすくなります。
いろんなデータがありますので、正確なのかどうかは不明ですが、私が見たとあるデータ。普通に講義を受けただけの時の記憶の定着率は、5%。つまり、95%を忘れてしまうそうです。しかし、それを人に教える(アウトプットする)ことにより、記憶の定着率が90%まで上がる、とされていました。数字はいろんな条件や解釈ができますのでこだわりませんが、とにかく、ただ受け身で教わっているだけなのと、人に教えることとは、雲泥の差がある、ということだけは、私はしょっちゅう実感しています。
これは、よくお伝えしているエピソードです。私が氣の学びを始めたばかりの時の話。講座形式の授業のようなものがあり、初参加の私は、教わること一つ一つがとても新鮮で面白く、しっかりノートを取りながら聴いていました。心身統一合氣道の講座ですので、当然ただ聴いているだけでなく、体感を得ながらの学びですので、実際に身体を動かしながら、実感を得たものをノートしながらの受講でした。講座が少し進んだところで、講師の先生から、「ここで、今日のこれまでの内容を、パートナーの方と二人組で、それぞれ伝え合ってみてください」、という指示がありました。私はそこまで一生懸命ノートを取っていましたので、颯爽と自分のノートを開いて内容を見返しました。しかし、そこで自分のノートを見返してみると、印象に残ったワードが羅列されているだけで、それぞれの繋がりが全くなく、単なる思いつきのメモでしかありませんでした。当然、それをみて説明しようと試みても、すべてが「点」の情報としてあるだけで、まったく意味を成していません。一体何を聴いて何をノートしていたのだろう、と自分のいい加減さに衝撃を受けました。
翌月、同じ先生の次回の講座がありました。今度は前回の衝撃的な失敗をしてはならない、と氣合いを入れて受講していました。やはりノートを取りながらの受講ですが、今回は前と違います。ただ印象に残ったことだけを書くのではなく、「後でこのノートを見るのは、この授業のことを知らない人だ」と思って、その架空の人が読んでも理解できるように、きちんと流れを踏まえながらノートを書いていくようにしました。つまり、受講しながら、その内容を「誰かに伝えることを想定して」いたわけです。そうすると、ノートの内容が格段に変わっていました。濃度というか、密度というか、そういうものが段違いになり、それでいて、きちんと「流れ」について自分自身で説明できるようなノートになっていきました。後でこれを読んでも、何を学んだかがちゃんと分かるようになっていました。
何かを学ぶ時に、それをいかに人に伝えるか。そういう視点を持つだけで、学びの入り方が変わります。そしてそれを実際に伝える(アウトプットする)ことで、それが自身のものとして定着する度合いが、大きく高まっていく。これが、「指導者たる心がけ」の意味であろうと思います。心身統一合氣道において、私はこのことを意識するようになってから、習得のスピードも深さも、大きく変化したと実感しています。当初の、一般生徒として稽古していた時と、「いずれ指導者となる」と意識してからでは、格段の違いがあります。実際に人を指導するかどうかは別として、自分の学びを深めるためにでも、こういう視点を持って取り組まれることをお勧めします。
で、その延長線上の話として、「指導」について書いていきます。こどもクラスでの「あるある」ですが、「日常生活十の誓い」を読み上げていて、「1.正しい姿勢をします」を読んだ時、こども達の姿勢が自然と変わります。ちょっと氣が抜けた姿勢だった子たちが、この言葉を発した瞬間に姿勢を正してしまうんです。「口に出す」という形でアウトプットをしたことで、自分の状態とアウトプットしたことのギャップが氣になり、自身を修正してしまうんです。これって、すごいことだと思いませんか? つまり、自分を変えようとか、何かを上達しようと思ったら、なるべくそのことを発信したりアウトプットしたりすること。そうすると、出したことと自分自身の姿とのギャップがあることが氣持ち悪く居心地が悪く感じられ、自然と修正されてしまう、ということです。
心身統一合氣道の稽古を始めた、やってみた、ということは、そこに何かしら自分を良い方向へ導いてくれる要素を見つけた、ということだと思います。稽古していて、そのことが「身についている」ことを感じていますか?
もしその実感が薄いという方がいたとしたら、それはアウトプットが足りていないのかもしれません。人に伝える、ということは、まず自らを律することに繋がっています。姿勢が悪くだらしない印象の人から、「あなたは姿勢を直した方が良いよ」なんて言われても、「お前がな!」としか思えませんよね。ただ、それは「自分が出来るようになってから伝える」ということではなく、「伝えることによって、自分を変える」という環境を作る、という方向に使うべきです。いつも「心を静める」とか「争わない」とか言っている人が、やたらとキレたりしていたら、「言ってることと違うやん!」と周りから指摘されますよね。そうなると、自身が改めていけるようになるわけです。アウトプットすることは、記憶の定着、という意味合いもありますが、周りの目線によって自身を修正できる環境を作る、という利点もあるわけです。
「一日学べば、既に一日の師である」。誦句集「二十一、説道」にある言葉です。この言葉から、「自分が完璧になってから、はじめて人に教える」のではなく、一日分学んだことがあれば、一日分の師となって、人に教えることが出来るということになり、だからこそ我々は「指導員」として「先生」なんて呼ばれながら、お伝えすることが出来ています。その道を極め、何かに到達した人だけが教えることが出来る、のではなく、教えることで自らがより深く学んでいくことが出来る。教えることで、自らを律する環境が生まれ、さらに身につけられるようになる。そういうことだと考えています。
心身統一合氣道会には、指導員になるための「指導者候補」を育成する仕組みが設けられています。私の教室でも、いきなり先生になるということでなくて、より深く学び身につけて、それを自分の周りの人たちのために役立てたい、という氣持ちのある、指導者を志す方を求めています。あまり大袈裟に考える必要はありません。技術的なことにこだわる必要もありません。大切なのは、志と人間性。大きく広い目線で、氣を学び、普及していく、そんな道を歩いてみたい方、是非一緒に進んで行きましょう!