「強さ」とは

※この記事は2024年1月に、私の教室の会員の皆さん向けに書いたコラムです。内容はあくまでも私個人の意見です。

「強さ」とは

2024年最初の悠悠合氣道通信です。皆さま今年もよろしくお願いします!私は年明け早々に、不摂生から体調を崩して、1日寝込んでしまいました。すぐに回復しましたが、氣が抜けていますね〜。反省でございます。氣を取り直して、今年最初のコラムにまいります!

今回はあらためて「強さ」ということに向き合ってみたいと思います。皆さんは強くなりたいと思っていますか?

心身統一合氣道は武道です。「争わざるの理」をその教えとしているとはいえ、いざという時に身を護ることが出来なければならないのは当然のことです。「強くなりたい」、そういう想いで心身統一合氣道の門を叩いた方が多いのも、当たり前。そしてそれは全く間違いではありません。創始者の藤平光一先生が合氣道を始めたのも、「実戦(戦場)に活かせる」ということからだそうです。それって例えばどんなことでしょうか?
・リラックスを知り、腕力に頼らない、それでいて強烈な力を生み出すことの出来る身体の使い方が身に付くこと。
・一瞬で状況を把握し、察知することの出来る鋭敏な感覚、「氣」をみる感覚が身に付くこと。
・いざという場面で動じない心の状態を身に付けること。
・対武器、対多人数といった想定のある武道であること。

こんなところが私の思いつくところです。もしかすると、初心者の皆さんは普段の技の稽古の中では、どうしても技の「形」を追うことで精一杯になってしまいがちですので、これらのことを合氣道で身につけられる、という実感はあまりないかもしれません。しかし、一通りの基本的な技を身につけた先には、間違いなくこうした「実戦的な強さ」が手に入る武道であると言えます。

さて、ここで言う「実戦」とは、何でしょうか?藤平光一先生の場合、軍隊で戦地に赴くことを想定していたわけです。時代背景や立場がそうだったからですね。我々もそういう思いで「実戦」という言葉を使うことがあるでしょうか?私の中にはそのような想定は全くなく、あり得るとしても、せいぜい街中で喧嘩に巻き込まれるとか、通り魔的なおかしい人に出会ったらいかに制するか、というのが関の山。武器を持つ軍隊と敵対して闘うなどということは、現代日本人にとっては想像するのが難しいですよね。

実は私は、大学生の頃から格闘技にハマり、このような「いざ闘わば」という想像は色々考えてきた妄想人間です。小中高と剣道をしてきたので、武器を持っての闘い、なんていうのも頭の中ではたくさんシミュレーションしてきました。(実際の喧嘩などの実戦は全くありませんが。)こういう話って、究極は「戦争」の想定に行き着きます。一対一で、素手で、という限定された環境の中だけで、強いの弱いのと言っても、意味はないからです。街中でも武器を持つ人間は存在するし、相手は一人に見えていたのが、いつの間にか10人の仲間が集まってくるかもしれませんからね。たくさん人を集めて、たくさん武器を集められる人が最後には勝つ、なんていうと、世界最強の米軍を指揮できる大統領が一番喧嘩が強い、ってな極論に行き着くわけです。
また、喧嘩に勝って、法律に負ける、ということもあります。街中で殴り合いになって勝ったとしても、相手に怪我をさせてしまえば傷害罪です。社会的には、「負け」となるわけです。

そんなわけで、いわゆる喧嘩的な「強さ」について、私自身はとても好みますし、手に入れたいと思う、そして心身統一合氣道によってそれは手に入る、というのは間違いないと考えております、が、それが「目的」なのか?と言われると、ちょっとそれはちっちぇな(小さいな)、と思っています。武道である以上、「そんなことどうでもいい」、では全くありませんが、ただ喧嘩に勝つためにやるのだと言われてしまうと、とても残念な思いです。では、他にどんな「強さ」が手に入るのでしょうか?

まず一つ目は、「生命力」の「強さ」です。生物である以上、どんなに闘って強くても、病気や怪我などの他の要因で命を失ってしまえば、一つの生命体として「弱い」ということです。高名で強いと言われた武道家や格闘家の中には、とても短命に終わった方々もいます。人生の価値観は人それぞれですが、私はどうせなら、楽しく生き生きとした人生を長く生きていきたいと思います。そして、喧嘩なんか出来なくても、長い人生をかけてたくさんの人のためになることをして、社会に貢献した人は大勢います。そういう「強さ」って素晴らしいものではありませんか?長く、多くの人に良い影響を与え続けられること、そのためには常に明るく楽しく生き生きとした日々を送ることが必要です。そんな、人間としての生きる「強さ」、生命力の強さが身につけられるのも、心身統一合氣道の重要な要素です。
人間の生命力とは、天地自然に与えられた「命の本態」そのものです。「心」も「身体」も、その上に着せた衣服と同様である、と藤平光一先生は言われました。その本態をいかに輝かせることが出来るか、それが「心身統一」であり「天地と一体となる」ことであると、私は考えています。心の面では、氣を出すこと、心を静めること。身体の面では、リラックスすること。そういうことを常に磨き上げていくことで、我々の生命力は天地自然に与えられた本来の姿で輝くことが出来る。これを邪魔する様々なことを取り除いていくことが、心身統一の稽古であると言えるのではないでしょうか。

もう一つ、精神面の「強さ」について。闘うことが得意な人でも、人生の方向性が定まらなかったり、周囲の人と接することにおいて臆病であったり、精神的には弱々しい人っていますよね。喧嘩は弱くても、誰とでも生き生きとコミュニケーションをとって想いを伝えたり、何があっても自分のしたいことに向かって生きていける人、なんていうのもいます。そうした精神的な、心の強さ、みたいなものってあると思います。その源泉って、何なのでしょうか?私の中では、それは「信念」の強さや、「自信」「自己肯定感」に裏打ちされるもの、です。そしてそれは「天地」という概念、氣の教えによって、強く大きな後ろ盾を得られるものだというのが、私の考えです。
例えば、自分は勉強が出来るから自信を持って生きていける、という人がいたとします。地元の中学ではトップクラスでも、同様の成績の者が集まる高校に進学すると、どうでしょうか?そして、さらに大学へ行くと?職場で仕事をしてみると?所詮は相対的な価値観による自信に過ぎず、段階が進むにつれて自信は小さく薄れていってしまいます。スポーツでも、仮に喧嘩でも、同じことです。そうした人工的なもの、後天的なものではなく、何とも比較することの出来ない「自分」という命そのもの、それに対していかに価値を感じ、信じて敬い、大事にすることが出来るのか。「氣」について学び、「天地」について知ることは、自分に与えられた生命の意味や価値を知り、それを高め続けて行くことの出来る強い心を養うことになるのではないでしょうか。
心身統一合氣道の稽古で、統一体の凄さを実感するたびに、天地によって与えられた自分という生命の素晴らしさを知ることが出来ます。天地は、確実に我々を「生きろ」というメッセージと共に、この世に生み出しています。なので、必ず与えられた自分自身の個性や能力を磨いていくことで、善く生きることが出来るはずです。そのことに氣づき、使命や生きがいを見出して生きていく人の持つ「強さ」というのは、何物にも変え難い価値があるのではないでしょうか。

「強さ」というテーマで考えてみました。他にも色々な「強さ」があると言えるかもしれません。繰り返しになりますが、心身統一合氣道の中には、いわゆる「闘い」における強さの要素は、当然にありますし、ちゃんと役に立ちます。しかし、私の考える「強さ」とは、もっと深く大きく重要な意味での「強さ」であり、それをも身につけることの出来る、真の武道こそ心身統一合氣道である、ということです。不摂生して寝込んでいる者にそんなことを言う資格があるのか、と言われてしまうかもしれない未熟者ではございますが、そんな理想を体現し、多くの皆さんにもこれを体感していただくべく、今年も心身統一合氣道のさらなる普及拡大に向けて、日々精進してまいります。

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