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僕が電動車椅子サッカーに出会う少し前の話②



前回からのつづき

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ばあちゃんの入院生活

辛い時間

ばあちゃんは
入院してからずっと点滴、
ほぼ目を瞑っている状態で起きているのか眠っているのか分かりづらかったが、
起きている時はよく「喉が渇いた」、
「水が飲みたい」とうなされていた。
嚥下機能が低下し、ほぼ飲まず食わず、
とろみをつけた水さえ飲み込むのが辛そうだった。


調子が良い時は一言、二言なら会話する事は出来ていた。
ある日、調子が良さそうだったので、
僕の方から声をかけた。
「祐太やで。見舞い来たで。そばにいてるで。」
と。
するとばあちゃんはか細い声で、
「あーそう。ウチとこの子と同じ名前やねぇ。」
と言った。
どうやら孫が祐太という名前なのは覚えているが、
そばに居るのが中村祐太本人だとは
分からないようだった。


昔、僕が小学生の頃、
母方のおばあちゃんがアルツハイマー病?認知症?で亡くなった時、
オカンが「親に忘れられるのは辛い。」
と言っていた。

こういう事なんかなと少し分かったような気がした。


何も出来ないまま時間は過ぎる。
それから数日が経ち、受け入れ先の病院も決まり、
電動車椅子で行くには少し距離のある病院へ。
看取りをしてくれる病棟。
この頃になるとばあちゃんは
もうほとんど話せなくなっていた。
出来る限りオトンやオカンが見舞いに行くタイミングに合わせて車に載せてもらって見舞いにいった。

ここからは早かった。


2019年3月末


夜中に実家の電話が鳴った。
その時が来たのだと思った。準備をして病院へ。
ばあちゃんは眠っていた。
スー、スー、と寝息のような音がハッキリ聞こえるほど病棟は静かだった。
夜中やし当たり前か。


今夜限りでお別れになるのかと思うと寂しかったが、
もうこれ以上、
ばあちゃんが苦しまずに済むと思えば少し安心感もあった。
脳腫瘍で倒れてからの入院生活はずっと苦しそうだったから。

朝方(4時か5時ぐらいだったか?よく覚えていない)になり、
ばあちゃんの心拍数、スー、スー、という寝息の音もゆっくり、弱くなっていく。

いよいよだった。
僕はボーっとそれを眺めながら、
この後から、ばあちゃんどこにも居なくなんのかーとか、
もうちょっとゆっくり時間作って会いに行ったら良かったなーとか、
もっと電話に出てあげたら良かったなーとか、
何もしてやられへんかったなーとか。

大切な人が亡くなった時の
教科書通りの後悔の仕方に、
こんな時だけ、都合の良い時だけ善人でいようとしてる自分が嫌だった。


ゆっくり弱くなっていった呼吸も心臓も
とうとう止まる。
人が目の前で死ぬのを初めて見た。
30過ぎにもなると今まで関わって来た人達何人かは亡くなっているが、看取るのは初めてだった。

家族全員しばらく黙っていた。
僕は泣いていた。
家族の前で泣いていると悟られたくなかったので、声を押し殺していたが、
誰がどう見ても完全に泣いていると分かるぐらいには泣いていた。

悲しいとか淋しいとかだけではない
色々な感情が渦巻いていた。


通夜、葬儀、それから。


これから通夜と葬儀が始まる。
オカン達はバタバタと忙しそうだったが、
僕はというといつも通りの生活に戻っただけだった。

ふとiPhoneの電話アプリの右上の赤い点が目に入った。
開くと留守電だった。

気づいた。

下にスクロールしていくと残っていたばあちゃんの留守電。

聴いてみた。ハッキリ声が残っていた。
当たり前だ。留守電だもの。
通夜や葬儀の合間にボーッと聞いていた。

棺桶に入っているばあちゃん。
覗くと当たり前だが病院で見たときより、綺麗な顔だった。
死化粧。
生前からどこへ行くにも化粧をしてビシッとしてたばあちゃんだったし、病院での辛そうな顔を見ていたので、
綺麗な顔で送り出してもらえる事に僕は少し安心した。

葬儀が終わり、火葬場へ。
火葬の待ち時間、
僕が小学校3、4年生頃に亡くなった母方のばあちゃんの火葬を思い出していた。
思えば、母方のばあちゃんも父方のばあちゃんにも謝りたい事ばっかりだった。

変わろうと思った。
このタイミングで、
自発的に何か変えられなければ、このままダメになっていきそうだったから。
本当は一人旅でもしたかったが、
一年ちょいグータラな生活を続けていた為、
もうとっくに貯金はなかった。
まずはこの何もない生活から抜けだそうと思った。

火葬が終わり、
ただでさえ小さかったばあちゃんは、
骨壷に収まるほど小さくなった。


4月になった。

僕が電動車椅子サッカーに出会う少し前の話③につづく

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