僕が電動車椅子サッカーに出会う少し前の話①
はじめに
今回は僕が電動車椅子サッカー(パワーチェアーフットボール)という競技を知り、選手として活動する少し前の話を書こうと思います。
電動車椅子サッカー(パワーチェアーフットボール)とは何ぞや?
ルールは?って方はこちらをご参照ください。
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電動車椅子サッカーを知る前の自分
2019年6月、
32歳という年齢で
僕は初めて電動車椅子サッカーの存在を知りました。
ここではそれ以前の、
この競技を知る少し前の僕の生活を書こうと思います。
2017年1月
弟の2度目の脳梗塞、それによる音楽活動の弊害
(※2017年当時大阪アメ村で、弟と二人でレゲエのサウンド活動をしていた。
弟がMC、僕がセレクター)、
弟に右半身麻痺という後遺症が残り現場に出れなくなってからも、
しばらくは自分一人で現場で回し、この頃は同時にテレアポのバイトもやりながらだったので、心身ともに疲れ果てていた。
身体はしんどくて苦しくて全て投げ出してしまいたかったが、
自分が今までしてきたことを簡単に諦めたくなかったので、後1年間はこの生活を続ける事にした。
※サウンド?MC?セレクターてなんやねん!って方はコチラ↓↓↓
そして2018年
1年間続けていた一人でのサウンド活動にも一旦終止符を打ち、バイトも辞めた。
100万円ほどの貯金と、何者でもなくなった30過ぎの自分。
クズ爆誕。
貯金を食い潰すニート生活の始まりである。
いざ何もしなくなると色々と考えてしまうもので、現実逃避することにした。
現実が追いかけてこようものなら逃げて逃げて逃げまくってやろうと。
実際逃げて逃げて逃げまくった。
起きたらまずゲーム、夜になればお酒を飲みながら朝方までゲーム、
何もしたくなかったし、
誰にも会いたくなかった。
全てがどうでもよかった。
2019年3月
そんな生活を続けていたある日、父方のばあちゃんが倒れた。
ばあちゃんは実家近くのマンションに一人暮らしで、
倒れる少し前から言動や行動がおかしかった。
オカンが「嫌な予感がする。」と言いだし、マンションに見に行ったところ倒れていたらしい。
オカンの嫌な予感は良く当たる。
逃げきれていると思っていた現実に
最悪の形で引き戻される。
脳腫瘍だった。
昔から実家の近所に住んでいて、
会いに来てくれた時は
お菓子やお金をくれたばあちゃん。
弟の事も気にかけていたが、長男である僕の事は特に気かけていてくれて
僕が高校生になり携帯電話を買うと、
頻繁に携帯に電話がかかってきたりしていた。
友達と遊んでいる時も。
それが煙たかったし、鬱陶しかった。
電話を無視したりもしたし、
出てもハイハイと気のない返事をするだけだった。
自分は最低なヤツだという自覚はあった。
いつも後ろめたかった。
ばあちゃんが倒れる以前、電話をかけてきてくれた時の留守電数件は
今も消していないから声だけは今でも聴ける。
今でもたまに聴いては思い出し、自分を戒めている。
自分は本当に最低な孫だったと思う。
話を戻す。
ばあちゃんが脳腫瘍だとわかり近所の病院に入院する事に。
肺癌から転移した脳腫瘍だった。
年齢的にも手術するのは難しいと医者から説明を受け、元気な頃のばあちゃんの意思を尊重し、
手術はしない事に。
終末期医療?ターミナルケア?緩和ケア?
その時の医者の話はボーっと聞いていただけなのでよく覚えていないが、
新しい受け入れ先の病院が見つかるまでは、
家の近所の病院にいるとの事。
電動車椅子でも家から10分ぐらいの距離だった。
絶賛クズニート生活中で時間はあったし
出来る限り見舞いに行こうと思ったが、
病院でオトンやオカンと鉢合わせになるのは嫌だったので、
二人が居なさそうな時間帯を狙っての病院通いが始まった。
僕が電動車椅子サッカーに出会う少し前の話②に
つづく
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