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千尋の両親はどこにいた?

あけましておめでとうございます。
今年も思い立った時に、ツイッター(X)に入り切らない!!って時に
だらだら文章書いて行こうと思うのでよろしくお願いします🙏




さて2024新年1発目のロードショーは
『千と千尋の神隠し』でしたね!
何十回も見ているこの映画。
見るたびにここってもしかしてこうゆー意味?
これはこう考えることもできるかな…
と新たな発見がある映画。

公開されたのは2001年。自分は9歳でした。
ただ初めて見たのは、家のビデオで見たので
おそらく10歳頃だったと思います。
まさに千尋と同じくらいの歳に見たんですよね…
それが今や30代。
初めて見た時とは違う感情で、(見るたびに変わっていくのですが)いろいろなことを考えたりしました………


『お父さんとお母さんはここにはいない』って台詞

子どもの頃は何も思わなかった。

なんだそれ〜!?この中にいないの!?え〜!?
そんなのあり〜!?

くらいの感覚(笑)(笑)

でもこの言葉が、言葉の持つ意味が、そのままの意味になるなら…

本当に2人はここ(油屋)にはいない

って意味なのかも…と今日初めて思った(何十回目にして)

2人は油屋に初めからいなかったのでは?
たしかに最初にこの地に足を踏み入れて、神様のごちそうを勝手に食べたかもしれない。
(そこまでは事実)

話を聞いてくれない2人にしびれを切らして、来た道を引き返そうとした千尋…

カエルの銅像から水が少しずつ出始めて、これが帰る道を絶つきっかけになり…千尋を閉じ込めている…

そして両親の元に急いで戻ると
両親は豚になっていた、と…

ここで映画を見てるこちら側は

「なんてこった!勝手に食べたからバチがあたったんだ……」と豚になってしまったと思いこみます。

でも本当に豚になったかどうかは誰も見ていないですよね

変化の魔法が使えるのはラストで出てくるので
両親じゃない別の誰かを変化させてそう思い込ませている可能性もあるはず…

実際千尋はそんなはずない!とお父さーん!お母さーん!と豚から離れて探そうとしています。


この辺りもこの豚は本当に両親なのか、違うかもしれないと思える点です。

そして夜になり影たちが動きだし、千尋が必死に戻ろうとした時

店の並ぶ道と草原への道は
あのカエル銅像からでた水が川となりいつしか海のようになっていて千尋が帰る手段を完全に絶ってしまっています。

現実世界//トンネル<草原//カエル銅像<夜店<橋<油屋
と3つの世界線に分かれているのではないかなと感じました。

ラストのシーンで千尋が草原を歩いて行くと
お父さんとお母さんは草原にいて
『どこいってたの?』と言います。
まるでそんなに時間がたってなかったかのように。

両親のいた場所(草原)と千尋のいた場所(油屋)の時の進み方に時差があるように感じます。

現実世界と両親のいた場所(草原)もさらに時差があるのは明確かなと…

なのでやはり
両親は草原、千尋は結界の中…逃げられない油屋へ行ったことになるのではないかと。

神々の食事を食べてしまった罰は、豚になることではなく
子どもを奪う(神隠し)ことだったのではないか?と思ったんです。

それが両親にとって罰になったかどうかはわからないんだけれど、おそらく娘を神の世界に閉じ込める…神隠しをすることが2人への罰だったのではないだろうか。

ハクに助けてもらえたから消えずにすんだけど
あのままだったら千尋はそのまま消えてたわけですから…

その後紆余曲折あって無事戻ることができたから良かったものの、もしあそこで消えていたら子どもはもう二度と戻ってこない
と思うと本当に罰として子どもを取られる
のパターンだったのかも。


そう思った点はたくさんあって、
この作品を通して『言葉』の持つ意味がとても大きいことがわかると思います。

名前のことはもちろん(後でまた詳しく書きます)
言葉で相手をコントロールしたり、言葉にすることが大切だということが随所に表されています。

言葉にすることの大切さは
ほとんど先輩のリンが教えてくれていますよね
それと同時に働くとは何か、子どもから大人になるとは何かを教えてくれているのもリンです

真逆の教え方ですが湯婆婆も千尋に対して礼儀と労働と…大人の世界のルールと厳しさを教えている人の一人でもあります。

そして言葉で相手をコントロールする
の部分は1番は名前です。

本当の名前を教えてはいけない
なぜなら相手に支配されてしまうから

千尋という名から文字をとって千になった
千と呼ばれることで『千になりかけてた』と言っていた千尋。支配されかけていたことを表しています。

湯婆婆は相手の名を取り、新たな名=あだ名を与えることで相手を支配して働かせていることがわかります。

実はこれと同じようなことをしている人物が作中にもう一人いますよね…?
他でもない、主人公の千尋です。

釜爺のことを前半は釜爺さん!と呼んでいますが
親しみが深まるにつれて「おじさん!」と呼んでいます。

釜爺という湯婆婆からつけられたであろうあだ名から
おじさんという自分が新たにつけたあだ名に変わっているんですよね
元々釜爺は千尋に対して優しく有効的な面がありましたが、そこでさらに千尋を大切な存在としているような眼差しにかわります

そこからは怒涛のあだ名ラッシュ。

銭婆さんと初対面では呼んでいたのに
変える前はおばあちゃんと呼んでいたり

湯婆婆のことをおばあちゃんと呼んだり

(ここの帰ってきたときの「おばあちゃん!今行きます」はすごくわざとらしいので違う意味も含まれているかも…と思ったりしてます)

これら全て呼ばれた相手は千尋のこと大切にしてくれてるんですよね……
千尋に気を許しているように見えるんです。
支配するとはまた違うのですが、懐に入られているといいますか…どちらにしても関係値が変わる様子を描いています。

千尋自身も相手に心をひらいているからこそ
そう呼ぶんだと思うんですよね
だから銭婆に本当の名を明かすんです

そして極めつけはハクの本当の名を言い当てるシーン
ハクが本当の名を呼ばれたときに龍の姿から人の姿にもどる
ということは人の姿の方が本当の姿なんだろうか…
そこはまたわからないけど
とにかく言葉にはあの世界で大きな力があることがわかりますよね

だからこそ『おまえの両親は豚になった』もそう言われることでそう思い込んでいたという可能性がとても高いのです

そして冒頭の「ここにはお父さんもお母さんもいない」に繋がります。
自分の両親は豚になんてなるはずがないんだ
あれはまやかしだったんだ
油屋にはお父さんもお母さんもきていないのだと

そしてまやかしから覚めた千尋には帰る道が用意されていたのです。決して振り返ってはいけない道が。

最後の最後まで試練があるのが
さすが神々の世界といいますか…
そして無事両親の元へたどり着きます

両親にとっては、ほんの数分見失っていたかな?くらいの感覚で

ここまで長々と書いてきましたがこの内容があっているかはわかりません
でも何度目かにしてまた新しい見方や発見をさせてくれるこの映画の素晴らしさを再確認させてもらいました。


最後に…
千尋は一度もカオナシのことを名前で呼ばないんですね…
あなた、あの人、あの…とか
最後の最後まで一定の距離を感じるんですよね

そこもわざとかなって
カオナシは千尋に欲しがられてましたから
千尋は無欲なのでカオナシを自分の物にしたいとも思わないし、言い方はキツイですが興味がないんですよね
だから喰われない


心をひらいてるわけじゃない…ただ連れていったのはきっとカオナシの中にある虚無感や切なさをかわいそうだと…ある種、引っ越すことになって無気力になっていた最初の自分に重なる部分があると
感じたのかもしれません。

欲にまみれた油屋にいるよりどこか遠く離れた静かな場所に行ったほうがいいと……

結果、銭婆の多くを求めず丁寧な暮らしをする
温かみのある家にたどり着くことで精神がめちゃくちゃ安定していましたよね


千と千尋はほんとに随所にモチーフがちりばめられていて取り上げたらきりがないので
今日はここまで

また何回も見たら違う発見があるかもしれない
それが楽しみです♬

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