【道教④】水戸黄門も道教?

中華街から帰ってから「媽祖(まそ)」のことを検索していたら、
面白い事実を知った。
江戸時代にあの“水戸黄門”こと徳川光圀が、媽祖を祀っていたというのだ。

光圀公といえば、水戸藩2代目で、
『大日本史』という日本の歴史書をつくった人。
この書物の中身は私は詳しく知らないが、
幕末の水戸藩主・斉昭公が崇拝していた人物ということは知っていた。
いわゆる“愛国”っぽい傾向がありそうな光圀公が、
外国の神様に寛容なのは意外だ。

そのスポットは「天妃山(てんぴさん)」。
場所は茨城県北茨城市磯原町。

光圀公は元禄3年(1680)、明国の禅僧・東皐心越(とうこうしんえつ)
が持ち込んだ天妃神を祀った天妃社を創建して、
灯明と大旗を掲げ、漁村の守りとしたという。
「天妃神」は「媽祖」の別名だ。

◆北茨城市観光協会「天妃山」
https://www.kitaibarakishi-kankokyokai.gr.jp/page/page000028.html
◆日本大百科全書(ニッポニカ)「天妃山」
https://kotobank.jp/word/天妃山-102726#goog_rewarded

愛国ゴリゴリの9代目斉昭公はのちに天妃神を廃して、
この社を「弟橘媛神社」に改めた。
尊敬する光圀公の創建なのに。
「夷狄(いてき)を打ちはらえ!」な斉昭公っぽくて
ちょっと笑ってしまう。

日本にやってきた僧の心越も気になる。
調べてみると、彼は明朝末期、戦乱を逃れてやってきたらしい。
(当時はそういう中国人が多かったそう)。

心越は、先に長崎にいた興福寺の澄一に招かれて、
延宝5年(1677)に長崎に入港。
鎖国の時代だったので、一時期幽閉されてしまうなどの
トラブルがあったようだが、京都・万福寺に滞在したのち、
光圀公に招かれて天和元年(1681)に水戸にやってくる。

優れた人物だったので光圀公は彼に心酔したようで、
天徳寺(現祇園寺)に住まわせ、亡くなるまで水戸で暮らした(祖国には帰らなかった)。
水戸藩としては先にいた朱舜水(高齢だった)の後継の
儒教の先生を探していたという経緯もあったようだ。

◆「心越禅師と徳川光圀の思想変遷試論―朱舜水思想との比較において―」徐興慶
『日本漢文学研究』2008年3月
https://www.nishogakusha-kanbun.net/03kanbun-356jyo.pdf
◆企画展「東皐心越と水戸光圀~黄門様が招いた異国の禅僧~」2015.10.5~11.13
https://www.komazawa-u.ac.jp/facilities/museum/overview/exhibition-room/2015/1014-2621.html
◆東皐心越禅師[とうこうしんえつぜんじ]と大雄寺
https://www.daiouji.or.jp/houwa039.html
◆祇園寺
https://www.gionji1692.com/

こうなってくると心越の人生が気になってしまう。
朱舜水も、朱舜水と関係があった鄭成功も気になる。
ちょっと調べたら面白すぎるのでストップした。

天妃社の話に戻ると、中国から船でやってきた心越は、
海上安全をつかさどる天妃神のお守り(像とか)を持っていたのだろうか。
曹洞宗の僧である心越が、道教の媽祖も信心していたというのが面白い。

光圀公は、仏教や儒学の知識を欲していたという事情も
あるのだろうけど、海外の人も積極的に採用していて、
その信仰もリスペクトしていたのだなあ。
鎖国の時代だけど、視野の広い人だっだのだろうか。

「弟橘媛神社」になった天妃社は現在、
小さなお堂が残っているらしい。一度行ってみたいな。

◆北茨城市商工会「【天妃山】発見!!」
http://www.kitaiba-shoko.jp/?page_id=8197

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