ダンディ坂野が文化になった現在
麦茶をグラスに注ぐ。生卵を割って熱したフライパンに落とす。明後日の方向に乱れた髪を櫛で梳かす。そして、テレビの電源をつける。いつもの朝のルーティーン。
「ゲッツ! 今日は昨日に引き続き、蒸し暑い日になりそうです。熱中症には十分に気を付けてください……」
ニュース番組のお天気お姉さんが朗らかな声で熱中症対策について語り始める。その声を聴き流しながら、僕は目玉焼きと何もつけていない食パンを齧る。頭の中は既に仕事の事で埋め尽くされつつあった。今日はきっと忙しい日になる。昨日も忙しかったのだから。食事は惰性で、いつの間にか無くなった食パンの味を、僕は全く覚えていない。
「坂野さんは、熱中症対策で何か行っていることはありますか?」
お天気お姉さんが笑顔で坂野にカンペ通りの質問をする。
「そうですね。やはり水分補給はしっかりやりますかね。あと、出来る限り日陰を歩くようにしてますね」
元お笑いタレントとは思えない、至極当然のコメントを真顔で言い放つ坂野。けれど、彼はそれでいいのだ。今さら、彼に若手芸人のような体を張ったギャグなど誰も求めていない。彼は今や世界的なマルチタレントとして活躍している。作家活動から映画監督、番組プロデュース、果ては自らの芸能プロダクションの設立まで手掛けた人物だ。
あまりのんびりしていたら会社に遅刻してしまう。僕はパジャマからスーツに着替え、鏡の前で小さくゲッツのポーズを取り、会社へ向かった。
ゴミ出しをしている近隣の住民、すれ違う登校途中の小学生、スマートフォンを耳に当てながら歩くサラリーマン。誰も彼もが、ゲッツゲッツ、と言っている。
会社に向かう電車の中で、「そういえば、最初はグー、も志村けんの発明なんだよな」なんてことを思った。僕が生まれた頃には既に「最初はグー」が浸透しきっていたから、志村けんが最初にやった「最初はグー」を知らない。それは大層面白いものだったのだろうが、今となっては単なる文化となった。笑う対象ではない。
ゲッツもそうだ。最初は全国民の心を掴み、大爆笑の渦に巻き込んだのであろうが、今や「おはよう」「お疲れ」に取って代わる挨拶と成り果てた。お笑いは行くところまで行ってしまうと、文化として昇華されてしまい、本来の効果である「相手を笑わせる」という部分を喪失する。
等と考えながら、僕はオフィスに辿り着いた。開口一番、口にするのは勿論この言葉だ。
「ゲッツ!」