#12 赤線廃業後の奈良木辻、郡山岡町、洞泉寺はどうなったのか
昭和33年3月15日、奈良県では3箇所の赤線地帯が最後の営業を行なった。翌日には解散式を行い、それぞれが新たな人生のスタートを切ることになった。4月1日には「売春防止法」の施行、一切の性売買が禁じられた。その後、芸妓街などの歓楽街はどのような影響を受け、赤線地帯はどのように変化し、懸念だった接待婦はどうしているのか。それぞれ見ていきたい。
さびれたバーやスタンド
人声もない11時過ぎ 風俗営業法が効く
木辻特飲街の廃止、南市検番が明かし花を廃止して営業時間を午後11時までとし花代を大幅に値上げしたことなどから、これまでこれらによって商売してきた奈良市内の料理旅館、スタンド、バーなどは大きな打撃を受け、特にこれまでは終夜人声の絶えなかった南市、元林院付近のスタンド・バーはよる11時過ぎになると客足はバッタリ途絶え、そそくさと店じまいをするありさまだ。
この現象を「売春防止法の過渡期的現象」(加藤県婦人児童課長)と見る人もいる。しかし、県警の買春取締本部では、こうした風俗営業者に対してこの際、風俗営業取締法(昭和23年施行)を徹底させることとし、4月1日から発行する売春防止法との二本立て取締まりを実施して
①県内から売春を一掃する
②風俗営業者の午後11時以降の営業は絶対に認めない
この二点に全力を尽くすことにしている。業者の中には「1年ぐらい経てば世間の監視や取締まりもやわらぎ、なんとかなるだろう」という期待を持っているものもかなりあるようだが、取締当局は“そんな甘い考えは捨てよ”といっている。赤線の廃止、風俗営業の取締強化によって赤線の業者だけでなく、こうした種類の業者もその営業方針をここらあたりで建て替える必要に迫られているようだ。
明治や大正時代の芸妓といえば、料理旅館や料亭などにしか来てくれない存在だったが、時代の移り変わりとともに、そのやり方ではお客が取れなくなってくる。原因としては、①芸妓の数が一気に増え質が落ちたこと ②客が金のかかる料亭などに行きたがらないこと ③バーやスタンドが流行したこと が考えられる。スタンドやバーに芸妓を呼ぶというのは「風俗営業の取締まり」という言葉からも、現在でいうキャバクラ、スナック、クラブのようなサービスを期待していたのか?と想像するが、どうであろう。
南市・元林院芸妓街のようす
南市検番では木辻特飲廃止に先立って3月1日から自発的に明かし花廃止、営業時間午後11時までにし、その代わり花代を1時間271円40銭(うち税金35円40銭)から、345円(うち税金45円)に値上げしたが、その後の模様について南市芸妓職業斡旋所に聞いてみると、「今のまま続けば置屋も芸者も共倒れです。せめて営業時間を午前2時まで認めてもらえれば良いのだが・・・」といい、某席のM子さん(26)は「この月はまだ60時間の花代があっただけです。」これは私の収入は1万円に足りない。昨年あたりと比べるとちょうど1/3です。とからだを持て余しているかっこう。現在、南市には9軒の置屋があり、40人の芸者がいるが、3月に入って7〜8人が「食べていけない」を理由にやめてしまったということだ。
元林院は南市のように花代は上げず、従来どおりの1時間360円(税込)にしているが、絹谷組合長の話では「全く話にならない。南市が花代を上げたのでこちらは景気が良いはずだと見る人もいるが、昨年の1/3程度です。営業時間11時がやかましく言われるので、芸者も11時になると怖いようにして帰ってきます。営業時間の延長をなんとか認めてほしい」と訴えていた。(「大和タイムス」昭和33年3月28日)
【木辻】転業一号店開き 昨日売春防止法全面発効
売春防止法は今日1日から全面的に発効する。県下の三赤線でも3月15日に廃業して以来、再出発の準備を急いでいるが、その第一号が、1日店開きした。
奈良市木辻瓦堂町の「新京」がそれで、木の香も新しく高級旅館に生まれ変わった。3月1日から改装を急いでいたものだが、和室4畳半と8畳の間が15室あって、ネオンブロ、トルコブロも備え、客にはトルコ嬢3人がサービスする。(『大和タイムス』昭和33年4月1日号)
実は、この4月1日の新聞記事には、上の文章中にある「新京」のトルコブロで働く下着姿の女性の姿が写されている。
ちなみに木辻町は昭和31年1月27日、不審火によって大火に見舞われ多くの建物が失われ、14人もの死者を出した。その後すぐに売春防止法安が成立したため、建物の建て替えなど、新事業に転業しやすかったという背景がある。現在、木辻に古い遊廓建造物が残っていないのは、大正時代から3度も続いた大火のためである。これについては、また後日別の連載で紹介したい。
次は赤線廃業に伴う、別の影響を見てみたい。明治から続く公娼制度の大きな意義のひとつは「性病の予防と封じ込め」であったことも忘れてはならない。戦前の娼妓たちは、仕事場では毎回“洗浄“を義務付けられ、週に一度は必ず性病検査を受けなくてはならなかった。戦後、赤線に変わってからも、性病の検査は続けられていたようで、行政側は罹患者数をきちんと把握していたようだ。
赤線は消えたが県下の元3地区で37人の性病患者野放し
県下の三赤線地帯は完全に灯を消したが、ここで働いていた従業婦195人のうち、梅毒を持っていた37人は完全に野放しにされている。県は4月1日の売春防止法の完全実施にさきだち、従業婦たちに元のきれいな体で更生してもらおうと、去る3月4〜6日の三日間、奈良、生駒両保健所で性病検査を実施したが、全従業婦195人のうち受診した174人の中に梅毒の保菌者28人、淋病43人、合併症の者が9人もいた。
これらの患者には健診の日から31日までの期間、無料で治療することになっていたが、初めは治療を受けていた患者たちも赤線業者が15日に一斉廃業したためr治療途中でどこかへ移動してしまった。
県公衆衛生課の見解では、「治療を受けた7日から15日までの治療で淋病はほとんど治っているものと見られるが、梅毒はそんな短期間の治療で全壊するものではない」という。しかし患者を強制収容して治療させる法的手段はないだけに、恐るべき梅毒患者を野放しにしているのが実情。
今、県婦人相談所に収容されている10人の従業婦の中にも6人の梅毒患者がいるが、婦人相談所に来る従業婦は更生意欲に燃えている人たちばかりなので、県では無料の治療期間は31日で終わっているが、特に無料で完全治療させることになり、4日奈良保険所に指示した。(『大和タイムス』昭和33年4月5日)
ここでは、赤線廃止前の検査で明らかになった接待婦の性病患者について、その詳細が記載されているが、廃業後治療途中で移動した接待婦を「野放し」と定義付けてしまった。この記事が掲載されることによって、どうなるのかというと、更生して就職したり結婚を望んでも、元接待婦には全員「性病患者」の烙印が押されるということだ。それから、まだ「性病は廓で働く女性が撒き散らすもの」という古い固定観念があったこともわかる。それこそ至る所に野放しにされている男性も数多くいたはずだからだ。色々な意味で、赤線をめぐる当時の人々の見え方、考え方がよくわかる記事だと考える。
↑ 昔の風情が残る飲み屋路地(奈良市西寺院町)
赤線を追われた彼女たち
34人が幸福な結婚 しかし大半は逆戻り
赤線の灯が消えてからもう三週間経った。旅館業、料理屋、飲食店、アルサロ、トルコブロなど業者の転業は遅まきながらかなり進んでいる。県警本部内の売春対策取締本部でも、偽装転業やもぐり売春、暴力ポン引きなどの強力な取締まりをしようと関係各者に指示して“売春防止法”による取締まり体制を固めている。しかし、赤線を追われた従業婦達はどうしているのか。県下では大阪や米子のように“生きる道がない”と自殺したものこそなかったが、いくあてもなく婦人相談所に一時保護されている8人の女性をはじめ、一旦郷里へ帰ったが居づらいので再び飛び出してきたものや青線、白線へ移行するもの、さらには警察の目をかすめて赤線へ居残り、馴染み客と裏口営業しているものさえあって、後世への道は険しく、また赤線帰りに一般の世間の目は冷たいようだ。売春防止法が完全実施されてから一週間経ったわけだが赤線を追われた彼女達の姿をとらえ、その明暗を探ってみよう。(『大和タイムス』昭和33年4月8日号)
廃業以降の元接待婦たちはどうなったか
奈良の木辻、郡山の岡町、洞泉寺三特飲街で働いていた従業婦は195人あった。このうち婦人相談所を訪れて身の振り方を相談したのはわずか16人で、ほとんどは行き先さえはっきり掴めないままになっている。最も去る3月に同所が行った行き先希望の調査によると、帰郷139人、結婚34人、就職4人、天理教修養科入所1人、不明17名となっているので、この通りだとすると関連はないわけだが、実際は帰郷したものはごく少数で、大半は大阪、神戸方面の白線や青線に身をしずめているのではないかとみられており、なかには奈良市内でモグリ売春(自己引き)しているものもあるという。また一旦赤線をやめて実家に帰ったが「赤線帰りと指をさされる」ので再び奈良へ戻り、婦人相談所を訪れたものも2人いる。そのうちの1人は相談員が双方を説得して帰郷させたが、もう1人の方は未だ行く当てもなく相談所の保護宿泊施設で希望のない毎日を過ごしている。
他にも、アルサロへ転向したもの、元の引子を使って青の馴染み客と売春を続けているもの、表向きは旅館の女中をしながら自己引きしているものなど多種多様に分かれている。そして赤線帰りというレッテルのために客からの誘惑も多く、いつまでも泥沼から這い上がれないのが実情だ。
このように彼女らの更生を阻むガンの一つは、過去のダレ切った生活にもあると見られている。この点は県が用意している生活資金、技術習得資金、仕度資金などの利用者が皆無に近い事実を見てもうなづける訳で、婦人相談所の保護施設が敬遠されたり更生資金の申し込みが少ないのは、堕情な生活が身に染み込んでいるためで、これまで店によっては1日分だった収入が、一ヶ月働かねばならない、というところに原因があるようだ。このため彼女らのうち、真面目に将来を考えているものの最大の望みは結婚で、すでに34人が結ばれて幸福な生活をしているという。これはほとんどが馴染み客と一緒になっているので、なかにはインチキ結婚や情婦、2号というような◼️◼️で同棲をしていることはものもいるのではないかと関係者は目を光らせている。(『大和タイムス』昭和33年4月8日号)
大和タイムスの記者は、接待婦が更生できない(赤線に帰ってしまう)理由を以下のように分析していた。
① 実家に帰ったが後ろ指を指されるから
② どこで働いても赤線帰りというレッテルで客に誘われてしまうから
③ 赤線時代の楽して儲けようという気持ちが抜けきらないから
④ 日給だったのが月給になり続かない、お金の管理ができないから
⑤ 煩雑な融資の手続きが面倒だからしないため困窮しているから
貸付金のハードルの高さと「ヒモ男やグレン隊」の存在
県が予算計上している73万円の更生資金は生活資金、生業資金、技術習得資金、仕度資金の四種類で、7日現在相談員を通じて貸し出しを申請しているのは、生業資金(一人当たり5万円以内、一年据置で4年以内償還)一件だけ。しかし郡山岡町から大阪のアルサロに勤めているある女性は「通勤の金さえ困っているのに貸付資金の条件が厳しすぎる」と訴えている。資金の貸出申請には、保証人をはじめ戸籍謄本、相談員の同意などが必要で、身寄りや保証人さえいないものが多いだけに、実情に沿わない制度だと批判されている向きもある。
現在一件出ている生業資金の貸出しでも、書類が全部揃わないところから相談員の調査結果によってはダメになるかもしれないという。借りたくても借りられないのが実情のようだ。本人の心構えも必要だが、更生への道はなかなか険しいようだ。
「しかし、奈良の場合は予想していたほど深刻なこともなく割合順調に進んでいる。これは大都会の利に見られるような“赤線”につきもののヒモ付きやグレン隊が少なく、またヒモの手先になって踊っているものがほとんどなかったためではないか。しかし、木辻や洞泉寺に比べて岡町の女の子達は、1人も相談所へ来てくれず、時々好ましくない風評を耳にするので、気がかりになっている」と吉川所長は語っている。(『大和タイムス』昭和33年4月8日号)
ここで注目したいのは、名目だけ存在する「貸付金制度」の存在である。実情に沿ってない貸付金の予算を組んだところで、本当に彼女たちの行く末を案じていたのか疑問である。そして、それを利用しないから「ダラけている」と捉えるのは、かなり上から目線の一方的な考え方である。
もうひとつ注目すべきは「ヒモ男」「グレン隊」の存在である。この二つはそれぞれの町が、今後どのような方向性を見出して進んでいくかの「キーワード」になる。上の記事では、そういう未来予想図が暗に示されていると思われる。
“水商売“への就職希望はまれ
しかし暗い話題ばかりではない。天理教の修養科に入所して人生の再出発を目指しているもの、婦人相談所の世話で大阪の男性と立派に見合結婚したもの、奈良市内のパチンコ屋へ就職したものなど、それぞれ新しい道を懸命に歩んでいるものもいる。婦人相談所を訪れた16人の女性のうち、就職4人、帰郷2人、結婚1人、知人へ引き取られたのが1人と3週間前には行くあてもなかった8人の女性が相談員の努力で立派に更生している。現在保護している8人のうち2人も近く職安の好意で就職するという。直接彼女達と話し合った相談員は「バーやカフェーなど同じ水商売関係のところへ勤めたいというのはごくまれで、相談を受けたほとんどの人は、私たちの予想を裏切って“かたい”ところへの就職を希望している。この機会に足を洗いたいというのが偽らぬ期待でしょう。」と語っている。(『大和タイムス』昭和33年4月8日号)
当時のこの元接待婦たちが、その後どうなったかを知る手がかりは今はもうない。ただ一つだけ「少し幸運だったかもしれない」と思うのは、この数年後、日本は好景気を迎え、高度成長期を経験するため多くの企業が若い人手を欲したということだ。その後の彼女たちが、どうか自分の思い描いた人生を歩めていますように、そう願うばかりである。
次回は、これまで12回の新聞記事を簡潔にまとめ、私なりに評価してみたいと思う。新聞記事は二次資料だと言われるが、これをまとめるだけでもある程度見えてくるものがある。しかしやはり不十分なところも多いため、新聞記事の情報をもとにアンテナを立て、総合的な調査に役立てたいと思う。
↑「大和タイムス」昭和33年3月28日号より
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※ヘッダ部の写真は『奈良県警察史 昭和編』より、木辻遊廓の坂道と格子
※この記事は昭和30年代のものであり、現在では不適切な表現が含まれることがあるが、当時の記者が伝えたかったことを尊重し、改変せずそのまま掲載する。
※文字が読みにくい部分は◼️で表した。
※数字は、原本は縦書きであるため漢数字になっているが読みやすさを優先し、アラビア数字に変換した。