昭和33年2月に入ると、いよいよ売春防止法施行まで2ヶ月を切り、転廃業へのスケジュールが具体的に定まってくる。法案可決の際には皆が「本当に実行されるのか」と疑ったものだったが、この時期になると、接待婦のほとんどがその後の身の振り方を真剣に考えるようになっていた。今回は、そういった接待婦に焦点を当てた記事を紹介したい。
まずは、2月以降の奈良三大遊廓の状況から。
これらの記事からわかることは
・2月に入って県内の特飲店は一斉廃業することに決まった。
・「これが最後」と一晩で900人以上遊客が訪れるようになった
・1月末現在の接待婦の数は282名だった
・この時期は接待婦一人当たり3〜4人の客をとる必要があった
それでは、その頃の接待婦たちはどういう思いで日々を過ごし、どういう未来を夢見ていたのだろうか。新聞記事の内容は個人情報保護のため匿名で紹介されており、情報の信頼性は少し頼りないのだが、ほかに拠るべき情報がないためとりあえず紹介したい。
このように、当時女性の社会進出があまり進んでおらず、また今のように子供や高齢者の福祉が行き渡っていなかった時代である。遊廓という場所が、戦後の混乱期の中で生活苦や貧困に喘ぐ「女性のセーフティネット」の場としても機能していたことが伺いしれるエピソードである。
それでは別の記事から、三大遊廓における接待婦の年齢層や、廃業後の夢などを調査したアンケート結果を紹介したい。
上記の記事から、当時の接待婦の実態が明らかになった。
・接待婦は18〜20代の女性が多い
・生活苦からこの世界に入った女性が多い
・故郷に帰れない女性が半数
・廃業後に仕事と住居を一度に失う女性のための保護施設があった
・廃業後は馴染み客と結婚したいという夢を持つ
・接待婦を嫁にしたいという未婚男性が4人相談に来ていた
また、売春防止法施行で影響を受ける女性はまだほかにもいたことを、大和タイムスは伝えている。
引子(曳子)はひきこ・ひっこと呼ばれ、遊廓特有の客引きの女性のことである。引子の仕事は店の中や店の前で客を呼び込み、金額の交渉までを担当する。年季が明けた(引退した)接待婦が引子になるケースが多かったようだ。
つまり売春防止法施行によって、奈良県だけでも接待婦282名、引子140名の女性が一度に無職になり転業を強いられたということになる。接待婦を引退後、結婚もせず、故郷に帰ることもできないから引子という仕事をしていたことは容易に想像できる。その後、彼女たちはどんな人生を送ることになったのだろうか。
そう言った新聞記事などがあれば、今後紹介していきたいと思う。
次回は、業者と奈良県の売春防止法対策担当者による「売春問題座談会」が新聞報道されていたので紹介する。
参考文献 『大和タイムス』昭和33年2月号より
ヘッダ部の写真は郡山岡町のネオン
※この記事は昭和30年代のものであり、現在では不適切な表現が含まれることがあるが、当時の記者が伝えたかったことを尊重し、改変せずそのまま掲載する。
※数字は、原本は縦書きであるため漢数字になっているが読みやすさを優先し、アラビア数字に変換した。