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#10 紅い灯もあとすこし、廃業を待つ県下の赤線地帯

 昭和33年3月。4月1日の売春防止法施行にさきがけ、15日で一斉廃業することを決めた奈良県の赤線地帯。営業できるのもあと数日と、終わりへのカウントダウンが始まった頃の木辻、岡町、洞泉寺の様子をサンデー郡山(郡山町の週刊誌)と、大和タイムス(奈良県全域の地方誌)から紹介する。

 他地域では名古屋の中村遊廓のように、すでに転廃業したところもあり、その後の状況はあまり良くないとの噂も流れる。この時期、新聞の三面記事に「遊廓」に関する話題が立て続けに掲載されていることから、世間でもこの赤線地帯の状況や今後について大きな関心があることがわかる。

廃業待つ岡町、洞泉寺

 数十年以上もの永い間、近畿でも名高い色の町・郡山の代表として君臨した岡町、洞泉寺の特飲店も4月1日の売春防止法の実施に先がけて、3月15日で廃業する。永い間市民と直接、間接に何らかのつながりのあった両組合の廃止は、その廃止が日本の一歩前進ということには違いないが、一抹の不安と寂しさはおおうべくもない。転業の最後の表情を記してみよう。
 岡町は業者24の内、旅館16、料理4、カフェー1、廃業3。
 洞泉寺は業者12、旅館2貸席3、廃業7。
 接客婦人の動きは次の通り。( )内は洞泉寺。
結婚18(15)、就職決定35(14)、帰郷38(10)、一時収容5(5)、就職希望5(4)、合計101(84)※この調査は市の1月末の調べで、警察の2月28日調べでは岡町82名、洞泉寺40名と減っている。

 なお郡山署では売春防止法の全面実施により、特飲料理業者の偽装転業の防止と料理屋営業者の買春取り締まりのため、西田署長総指揮のもと奥田防犯係長を中心に、取締陣を強化、先月関係者の参集を求めて以下を警告した。
 1)時間外営業の禁止
 2)客引行為の禁止
 3)芸妓の明花禁止
 4)芸妓置屋の同一家屋内の兼業禁止
 5)風俗営業者の売春禁止
各業者は之を諒とし、これら5項目を申し合わせた。
(『サンデー郡山』昭和33年3月9日号)


引子の声もなく、歓楽街のおもかげなし

 今年の1月、赤線地帯で最後の正月を過ごした県下の業者は63,接客婦は282人だった。ところが3月9日現在、県下三特飲街の59業者に抱えられた接客婦は268人。二ヶ月の間に4業者14人が転業、更正へ15日をまたずに踏み切ったわけ。残る268人の接客婦も15日には泥沼の生活から解放され、結婚、就職、帰郷と新しい人生へ再出発する。業者は16日に組合解散式を行い。許可が下りしだい希望の新商売に入る。
 こうして歴史の流れによって紅灯はついに消えるべくして消えていくわけだ。15日の一斉廃業を静かに待つ県下3地区赤線地帯には、すでに7色のネオンにも一時のはなやかさはなく、引子のおばあさんの客を引く声なく、接客婦の嬌声も聞かれない。業者、接客婦、引子らがそれぞれだまりこくったまま寒そうに背中を丸くして暖をとっている。ちらほら通るヒヤカシ客のクツ音だけが、最後のあわただしさを感じさせるが、もうすっかり歓楽街の様相を無くしてしまったようである。

 サンデー郡山の記事には「一抹の不安と寂しさはおおうべくもない」という当時の記者の印象が書かれているが、大和タイムスの記事には「接客婦も15日には泥沼の生活から解放され、結婚、就職、帰郷と新しい人生へ再出発する」と、どこか他人事のような表現の仕方をしている。おそらくこれは、当時一般的に考えられていた赤線地帯への眼差しだろう。もしくは、こう言うマスコミの表現が意図されたものなのか。

 兎にも角にも、彼女たちは「泥沼から更生しなければならない」と犯罪者のように新聞に書き立てられた。

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↑ 写真1  木辻の入り口に掲げられていた鹿のマークのネオン(大和タイムスより)

木辻のようす

 シカの模様とともに親しまれてきた入り口のネオンをはじめ、軒先の赤、黄、緑三色の灯が消え、灯りといえば道路中央に吊るした薄暗い街路灯と門灯だけ。表通りを通るだけでは接客婦のはでやかな着物姿も見かけないという寂しさ。88人の接客婦のうち就職が決まったのはわずか4~5人程度だという。婦人相談所を訪れる女性も目だって増えてきているが、なんとかなるさというケ・セラ・セラが彼女らの大半を占めているようだ。しかし接客婦の場合は年が若く、就職が決まらなければ一時収容所にでも入ることができるが、一層あわれなのは60人近くいる引子だ。ほとんどが50才以上、子供が独身のものや夫が戦死した未亡人、酒癖の悪い主人をもって家へも帰れないものなど、■■■のものが多いだけに”廃業”は生活に直結した切実な問題になっている。業者の転業や接待婦の更正とは別に、引子たちは福祉相談所が中心になって生活■■を検討することにしているが、今のままでは「16日からの生活に困る」と憂いている。しかし郡山の岡町、洞泉寺のさびしさに比べると、木辻にはまだ”赤線”のふんいきが多分ながら味わえる。”ここで紅い灯を知っておかないと永久に知ることができない”と興味本位にやってくる客や、なかでも他府県からの観光宿泊客が多くなっていて、それだけ活気を保っているようだ。業者の転業計画は旅館9,貸座敷・バー2,飲食■、■■6などとなっている。

岡町のようす

 大正13年、旅館、料理店などが申し合わせて特飲街をつくったというだけに、木辻や洞泉寺より歴史があたらしいことと、業者の家族たちが他に職業を持っていないのが多いので”赤線廃止”には一番真剣に取り組んでいる。したがって、早くから転業する業者もあったが、新商売がいずれもうまくいかなかったため、一部で2月末に一斉廃業しようという考え方もあったのに、のびのびになり、ようやく歩幅をそろえ15日に廃業することに決まった。こういういきさつがあるためか、24業者のうち営業を続けているのは約半数しかなく、寒々とした門灯のあかりの下で、うずくまって足ゴタツに暖を取る引子のおばあさんたちがそのまま岡町特飲街の表情をあらわしているようだ。玄関入り口と接客婦室への間にはカーテンを付けている。ときたま酒に酔った客が入っていくとめんどうくさそうな顔をした引子が仕切りのカーテンを開けて見せてくれる。だまって出ていこうとしても後ろから呼び止めもせず、また同じように足コタツにあたっている。そして午後11時には客があってもなかっても、”閉店”してしまう。
 一方、接客婦がいても営業を休止しているところも多い。こんな廓のなかからは、更正への決意を新たにしているであろう女性の陽気な歌謡曲が聞こえてきて対照的な複雑な気持ちを表している。最近張り出された「求む、アルバイト」の紙片広告が鈍い裸の街灯に照らしだされていて、売春の地下◾️行とその継承のような強さを予告しているようだが、数少ないヒヤカシ客の目にはとまらないようだ。岡町に90数人いるはずの接待婦の姿はついに見当たらなかった。
  業者の転業計画は旅館16、料理店5、カフェー1など。

洞泉寺のようす

 灯りの消えた寂しさはここも例外ではない。12軒あった業者のうち営業しているのはごくわずかだ。午後10時過ぎだというのに猫の子1匹往来を歩いていない。岡町と同様、接客婦たちの姿は障子で完全に仕切られている。ガラスのごくわずかなスキ間からのぞいた彼女たちは無表情な顔で人形のように座ったまま、再出発する将来の生活設計を夢見ているのか、それとも人生にあきらめきつているのか。洞泉寺特飲組合では、15日の廃業に引き続き、16日は業者たちの子も接客婦も揃ってお伊勢参りするという。
 業者の転業は旅館2、貸席3、廃業7を予定している。(『大和タイムス』昭和33年3月10日号)

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 次回は、奈良県の地方新聞「大和タイムス」に掲載された、奈良の赤線最後の日について紹介する。

※この記事は昭和30年代のものであり、現在では不適切な表現が含まれることがあるが、当時の記者が伝えたかったことを尊重し、改変せずそのまま掲載する。
※数字は、原本は縦書きであるため漢数字になっているが読みやすさを優先し、アラビア数字に変換した。

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【参考文献】
『サンデー郡山より昭和三十年前後の郡山 下』サンデー郡山社 1979
『大和タイムス』大和タイムス社 1957
ヘッダ画像は『写真集ふるさとの想い出大和郡山』編:国書刊行会1979より、大和郡山市洞泉寺町(昭和40年代)


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