大和郡山市東岡町遊廓について① 幕末〜明治編
また、東岡町遊廓繁栄の生き証人が消える。2024年7月31日付の毎日新聞に東岡町遊廓建物解体のニュースが飛び込んできた。記事のタイトルが「明治期の」とあるが、この建物は大正後期〜昭和初期の建物である。そもそも、明治期の建物は残されていないと思う。
東岡町の遊廓跡は、一部のマニアにとっては全国的にも有名な場所であるが、その歴史については、きちんとまとめられたことがなくベールに包まれている。そう、東岡町は奈良四遊廓の中でも最も史料が残されていない近代遊廓跡である。
地元の人でも昭和〜平成の違法売春が行われていた時代は知っていても、それ以前のことを知っている人はもう存在しないだろう。そのためニュースの記事もこのような曖昧なものになるのではないかと思われる。
そこで、奈良四遊廓の記事が途中ではあるが先に東岡町について現在わかっていることを書き留めておこうと思う。以下は私の論文(「近代奈良の遊廓と性売買-新聞報道にみるその諸相-」女性史学第33号」)から抜き出しアレンジを加えている。
近世〜明治維新期
東岡町は、郡山城下町南西にある柳町大門に隣接する外町で、奈良から大阪へ至る奈良街道沿いに立地する(下図)。ここは郡山城下町の入口でもあるため、旅籠屋が軒を並べ、その中には最盛期17軒の「煮売渡世」(いわゆる曖昧屋、性売買を行う場所)の店があったことがわかっている(「隠し売女御咎の記」『奈良奉行所与力橋本家文書』京都大学付属図書館所蔵影写本参照)。
幕末維新期から明治初期、下図の黄色く塗りつぶした街道沿いには菊屋・坂井・魚平・大みか・米浜など十軒ばかりの店(煮売茶屋・旅籠屋・曖昧屋等)があったという(昭和24年10月9日付『郡山週報』)。当時は芸妓と二枚鑑札の娼妓がいたようで、菊屋の「小米」や坂井の「叶」など芸達者な芸妓がいて、舞さらへ(日本舞踊の発表会)なども盛んであったという(南都馬角斎1933「大和の遊廓」上方郷土研究会『郷土研究上方』28号)。
明治初期 東岡町遊廓の盛衰
明治初期の東岡町には上の地籍図のように45の地番が付されていた。明治4年(1871)廃藩置県による郡山藩士が町外へ流出したことで、郡山町の人口は激減し東岡町の遊所は衰退した。また郡山藩の御用商人でもあった東岡町の大手旅籠屋「菊屋(※現在有名な和菓子屋とは関係ないのでご注意を)」は、その特権や後ろ盾を失ってしまったと考えられる。
追い討ちをかけるように明治5年(1872)10月、明治政府が公布した「芸娼妓解放令」によって、それまで遊女と交わしていた「身売証文」は全て無効となり、借金が帳消しになるなど、貸座敷は大打撃を受け東岡町の遊廓は存続の危機に陥った。しかし、当時の菊屋の主人等が遊廓再興の運動を起こしたことにより息を吹き返した。またこのころ、京都からやってきたお富とお咲の姉妹が「京富」という貸座敷を始めている(南都馬角斎1933「大和の遊廓」上方郷土研究会『郷土研究上方』28号)。このお咲は、女だてらに辣腕を振るってその後の東岡町を芸妓街として隆盛させた人物である。
その後、奈良県は明治9年(1876)に堺県へ、明治14年(1881)には大阪府へ編入された。大阪府の統計書では、明治12年(1879)の東岡町には貸座敷が16軒、娼妓が61名いたことがわかっている。この当時も二枚鑑札の芸娼妓が多くいたと考えられる。前述のお咲は、明治13年ごろ別店舗を構えて「京咲楼」と名付けたという。別店舗を構えることができるほど大いに繁盛していたのだろう。
以下は想像に過ぎないが、この東岡町の隆盛の要因は、奈良街道が整備され駅馬車が郡山にも停留していたためと考えられる。東岡町は大阪府庁と奈良を結ぶ街道沿いにあり、多くの高官や経済界の要人が訪れていたのでないだろうか。
当時貸座敷に課される税金である「賦金」は建物の大きさによって区分されており、東岡町の遊廓建物は小規模であったことがわかっている。例えば「貸座敷娼妓取締規則」が発布された明治16年(1883)の記録では、四等(総面積20〜29畳=16坪程度)以内の建物が多かった。
同年の貸座敷は15軒、娼妓は66名と増加傾向であったが、明治17〜19年ごろは、「貸座敷娼妓取締規則」の取り締まりがよほど厳しかった(芸妓の性売買は厳しく取り締まられた)ためか、コレラが大阪を中心に猛威を振るったためか、貸座敷の転廃業が相次ぎ明治19年ごろには貸座敷が10件となり、娼妓が28名と半減していた。
明治中後期における芸妓の隆盛
明治20年(1887)奈良県が再設置された時、東岡町の貸座敷は7軒に激減、娼妓は22名であった。これは奈良に政庁が戻ることによって、当時のメイン顧客であった国や県の高等官や経済界の要人が奈良木辻・元林院へ赴くようになり、郡山町の遊廓が衰退したためと考えられる。洞泉寺遊廓でも貸座敷10件、娼妓数32人に激減した。
奈良県再設置と鉄道敷設のニュースが巷を賑わすと、奈良町の貸家の値段や地価が倍以上に跳ね上がり、さまざまな店が新たに開業したという。前述の菊屋も、この時期に奈良に店を移して、郡山の店を売り払い現在の「菊水楼」を開く元手としたという。また菊屋の流行妓であった「小富」の力で「菊水楼」の建物が建ったとも言われている(南都馬角斎1933)。
明治期は特に酒宴の花形である芸妓が重用され人気があった。そのため県庁の置かれた奈良公園近くに立地する元林院遊廓が重宝されたのであろう。あまりの人気で貸座敷の数も芸娼妓も足りないことが続いた。後年には性売買部門を切り離して瓦堂町に移転し、元林院を芸妓のみの街にしたほどである。
明治23年(1890)大阪と奈良を結ぶ鉄道が開通し「郡山停車場」が開設され、これによって東岡町は苦境に立たされた。これまで街道を利用していた客層はみな鉄道を用いるようになり、大阪から直接奈良に向かうことになった。また、大阪方面から商人等の遊客が郡山駅を利用するようになったが、上図のように東岡町に行くには郡山停車場から1キロ以上歩かなければならない。一方、郡山駅から500mの距離に洞泉寺遊廓があり、多くの遊客はこちらに飲み込まれていった。
明治30年(1897)には、東岡町の貸座敷は4軒、娼妓は1人となった。このように元林院遊廓や洞泉寺遊廓の人気の影響で、東岡町ではほとんどの遊廓建物が取り壊され野原のようになり、田畑や金魚池に転用されていたようである。残された4軒の貸座敷は、下図のように東岡町の中でも城下町に近い東側に集中して存在していたと考えられる。
明治32年(1899)、東岡町の貸座敷は4軒、娼妓は5人であったが、下の番付に記載があるように芸妓は20人以上居たことがわかっている(統計には町ごとの芸妓数は記載されていない)。そして明治38年(1887)には、娼妓が0人となってしまい、郡山町では娼妓は洞泉寺遊廓、芸妓は東岡町といった棲み分けがなされることとなり、東岡町は芸妓隆盛の時代を迎えた。
新聞記事に見る明治期の東岡町遊廓
東岡町遊廓が新聞記事に紹介される記事は、現在のところ明治20年11月27日付『中外電報』「和州郡山近況」と『日出新聞』の「大和郡山通信」に花街として「岡町、洞泉寺」が紹介されるのにはじまる。その後、明治21年3月9日付『日出新聞』に「上水鉢奉納の賑わい(中略)郡山岡町花街の芸妓が揃ひの紅色洋服を着して余興を添るよし」と、岡町芸妓の活躍が報道されている。同年3月14日には興福寺の還仏会で奈良元林院、木辻町、郡山岡町、洞泉寺町の芸娼妓が廓中総出で参加し花を添えるとの記事がある。同年10⽉24⽇号『日出新聞』『中外電報』に、郡山警察署の開署式について報じられ、「一昨々日の郡山開署式は非常の盛況にて余興には昼夜煙火の打揚(打ち上げ)あり、警官の撃剣会有り又各花街(岡町・洞泉寺の)芸娼妓の官女姿に扮して屋台を共に練出したるあり(後略)」という記事が出ていた。
明治29年5月12日付『新大和』には、同年4月の遊客数の記載があり、東岡町娼妓2人に遊客129人(217円20銭の売上げ)、洞泉寺は娼妓73人に遊客3,071人(1237円81銭の売上げ)という。
また明治37年7月2日付『新大和』には、東岡町京咲楼の人気芸妓「おかよ」の朝帰りが報じられたり、同年10月2日付同紙には、芸妓の自由廃業の報道があった。
このように新聞記事の上でも明治20年以降には東岡町は芸妓がメインになっており、現在のアイドル的存在だったことがわかる。この状況は大正期まで引き継がれることとなる。
次回はその大正期にスポットを当てて紹介する。
略年表にてまとめ
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