第4話 「行為者 僕-誰」
昨年末にも岸辺露伴の実写版が3話放送された。
NHK制作だけあって、かなりのクオリティーであった。
実写版には取り上げられていないが、「月曜日 天気-雨」というエピソードがある。
奇妙な物語で、次から次へと人が線路に落ちていく(興味がある人は『岸辺露伴は動かない2 』を読んでほしい)。
最初に線路に落ちたのが、露伴である。
この窓辺語楽にとっては、「人が線路に落ちた!」というセリフは注目に値する。
実際には、露伴は誰かに線路に「落とされた」のであって、不注意で「落ちた」のではない。
この場合は、露伴が誰かに落とされた現場を見ていないから「人が落ちた」でもいいかもしれない。
では、次の文はどうだろう?
①の日本語を英語にしたのが②である。
両方ともとくに何の問題もない文だと思うが、インドネシア人の留学生は「変な文」と受け取るらしい。その理由は、「なんでわざと財布を落とすんだろう」と思うからである。
たしかに、①も②も「不注意で財布が落ちた」と言っているだけで、太郎 (Taro)は「財布を落とす」という行為をしていない。
にもかかわらず、日英語ともに「財布を落とす/drop his wallet」と言えてしまう。こう考えると、インドネシア語の感覚の方が「正常」に思えてくる。
さらに、日本語は「行為者をぼかす」言語でもある。
これもよく考えるとおかしな言い方である。
「お茶は勝手に入らない」からである。
では、なぜ日本語では「お茶が入った」が自然なのだろうか?
この点に関して、次のような文化的な理由をあげているものもある。
英語が恩着せがましいかどうかはわからない。
しかし、謙譲語なるものをもつ日本語が「つつましさ」を出す表現を好むというのは、1つの可能性としてはありうるのかもしれない。
みなさんは、どう考えるだろうか?
そういえば、「ワクチンを打つ」っていうが、ワクチンを打つのは医者であって自分ではない。
英語では get a shotやreceive the covid vaccineのように「打ってもらう」的な言い方をする。
「誰がやったのか」-行為者問題は奥が深い。
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