第1話 「あの日」の謎
意味は言葉の中に元々あるのではなく、人によって与えられる
-ヴィトゲンシュタイン-
マンガに憑りつかれた男、「岸辺露伴(きしべろはん)」。
そして、言葉に憑りつかれた男、「窓辺語楽(まどべごらく)」
これは、窓辺語楽が岸辺露伴の物語から言葉の謎に迫る短篇 (snippet)である。今回とりあげるのは「懺悔室」のこのシーン。
露伴は好奇心から教会の懺悔室に入るが、神父と間違えられる懺悔を聞くことになってしまう。
この懺悔男の話は非常にミステリアスである(興味がある人は『岸辺露伴は動かない1 』を読んでほしい)。
しかし、この窓辺語楽にとっては、懺悔男の「あの日」の方がミステリアスなのだ。
そもそも「あの」に使われている「あ」は話し手も聞き手も知っているものを指す。(『日本語文法ハンドブック (中上級編)』 白川博之 監修より)
であるのに、あの懺悔男はいきなり「あの日」と言っている。
「「あの日」っていつのことだよ!」
となりそうだが、ここに違和感を覚える人はいないだろう。
実際、露伴も何も「ツッコミ」を入れていない。
(ま、ツッコミを入れるような状況でもないが。)
なぜ、こちらが「知らない日」に「あの日」って言えるのだろう?
これは、すぐに自分の話に入ってきてもらいたいという懺悔男(話者)の気持ちの表れなのだ。
話を早く進めたい懺悔男は「神父(=露伴)もあの日を知ってる」ってことにしようと思ったわけだ。
結局のところ、言葉は話者が「思ったように」使うもの。
同じことが人の「判断」にもいえる。
露伴が神父のフリをしてそのまま話を聞こうと判断したのも、そうすることが懺悔男にとっていいと「思ったから」だ。
今回とりあげた「あ」はいわゆる「こそあど言葉」であるが、「こそあど言葉」はその後に何が付くかによっていろんな意味を表すことができる。
これと同じような「分解」が英語の疑問詞(what)や指示詞(that)にも見られる。(『日本語文法と英文法』 畠山雄二 編より)
まさに英語版「こそあど言葉」だ。
言葉を捉えるには「変わった」見方をすることが大事だと分かるだろう。
ちなみに、今回の懺悔男に対する露伴の見方も「変わっている」ともいえるが、人間を深く捉えているともいえる。
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