第2話 「被害村」
洞察力とは、見えないものを見る技のことである
-ジョナサン・スウィフト-
岸辺露伴の物語に「富豪村」というのがある。
奇妙なことに、この村には道がない。
森の中で孤立した村なのである。
同じような「村」が日本語にもある。
その名は「被害村」。
まず、次の2文をみてほしい。
① メアリーはジョンに褒められた。
② 僕は彼女に泣かれた。
まず、①を英語にすると、受け身文を使って書ける。
① メアリーはジョンに褒められた。
Mary was praised by John.
上の2文はともに「主語と目的語の入れ替え」をしている。
このように、①は英語の受け身文と同じである。
これに対して、②の文は英語の受け身文では書けない。
なぜなら、そもそも「cry (泣く)」は目的語をとらない自動詞だからだ。
つまり、英語では自動詞の受け身はそもそも不可能なのだ。
(『日本語を翻訳するということ』 牧野成一 著より)
そして、この日本語独特の②の文に「被害村」が存在する。
②は「僕は「彼女が泣く」という出来事を「被る(=られる)」 」という意味になる。
つまり、「彼女が泣く」という出来事が文の中で孤立して存在する。
②の「僕は彼女に泣かれた」はあたかも1つの文のようにみえる。
でも、上の図にあるように「彼女が泣く」という出来事が文の中で孤立して存在するのだ。
②のような文は基本的に被害の意味を表すため、文の中で孤立している出来事(=「彼女が泣く」)は「被害村」といえるだろう。
露伴に出てくる「富豪村」は「マナー違反すると大事なものを失う」という被害をうける。
日本語の「被害村」はその名の通り「被害」を表す。
どちらもあまり入りたくない「村」ではあるが、「被害村」は言語的に興味深いことが多い。たとえば、①と②では「自分」の解釈が異なる。
「被害村」には人を引き付ける魔力があるのだ。